フランスの政教分離法
概要
ナポレオンがローマ教皇と結んだ1801年の取り決め以来、フランスの国は、カトリックの司祭や、プロテスタント、ユダヤ教の聖職者の給料を払ってきた。19世紀の末、共和派とカトリック教会の対立は、ドレフュス事件でいっそう深まった。1905年12月9日に成った法は、国は良心の自由を保障し、礼拝の自由を守るとしたうえで、どの宗教も公認せず、給料も補助金も出さないと定めた。教会の財産の目録づくりは、翌年、各地で信徒との衝突を招いた。国が宗教から距離を置く「ライシテ」は、フランスの共和国の柱の一つになり、いまも公立学校のスカーフなどをめぐって争われている。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
フランス革命は、カトリック教会の財産を国のものにし、聖職者を国の役人にしようとして、教会と激しく争った。1801年、ナポレオンはローマ教皇とコンコルダート(政教協約)を結び、カトリックを「フランス人の多数の宗教」と認めて、司祭の給料を国が払うことにした。のちにプロテスタントとユダヤ教も公認され、その聖職者にも国が給料を払った。
19世紀を通じて、フランスでは、王政や帝政を支持するカトリック教会と、革命の理想を受け継ぐ共和派が、学校や社会のあり方をめぐって争った。共和派は、子どもの教育から教会の力を取り除こうとし、1880年代に、公立の小学校を無償にして、宗教の授業を外した。1890年代のドレフュス事件では、カトリックの新聞の多くがユダヤ人の将校への憎しみを煽り、共和派の教会への反感はさらに強まった。
1905年12月9日に成った法は、短く、はっきりしていた。第1条で、共和国は良心の自由を保障し、公の秩序を守る範囲で礼拝の自由を保障すると定め、第2条で、共和国はどの宗教も公認せず、給料を払わず、補助金も出さないとした。教会の建物は国や市町村のものとされ、信徒の団体に無償で使わせることになった。
教皇ピウス10世はこの法を強く非難した。1906年、法に基づいて教会の財産の目録づくりが始まると、各地で信徒が教会に立てこもり、警官や兵と衝突して死者も出た。だが年がたつにつれて、教会は国の支えから離れて自前で歩むことに慣れていった。当時ドイツ領だったアルザスとモーゼルでは、のちにフランスに戻ってからも、いまに至るまで古い政教協約の仕組みが残っている。
国が宗教から距離を置き、宗教を私的なものとするこの考えは「ライシテ」と呼ばれ、1946年と1958年の憲法で、フランスは「ライックな」共和国だと定められた。20世紀の末からは、イスラム教徒の移民が増えるなかで、ライシテは新しい争いの種にもなった。2004年、公立学校で、スカーフなど目立つ宗教のしるしを身につけることを禁じる法ができている。