できごと

ニュージーランドの女性参政権

Women's suffrage in New Zealand
AD1893年9月19日
重要度 5
大英帝国西オーストラリア(イギリス領)クイーンズランド(イギリス領)ノーザンテリトリー(イギリス領)南オーストラリア(イギリス領)ニューサウスウェールズ(イギリス領)M?oriVictoria (UK)AD1893年9月19日ウェリントン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1893年9月19日の版図を描いています(8勢力)。

概要

世界で最初に女性の国政選挙権が認められた。署名運動が議会を動かす。

場所

ウェリントン
-41.29°N 174.78°E · ニュージーランド

関わった人(2)

ケイト・シェパードAD1847年3月10日–AD1934年7月13日 · 運動を率いたエメリン・パンクハーストAD1858年7月15日–AD1928年6月14日 · 率いた

本文

1893年9月19日、ニュージーランドの総督グラスゴー伯が選挙法の改正に署名した。これによって、21歳以上の女性が男性と同じように国政選挙で投票できるようになった。自治を持つ国として、女性に国政の選挙権を認めたのはこれが世界で最初とされる。それ以前にも、アメリカのワイオミング準州のように一部の地域で女性が投票していた例はあるが、国の議会の選挙で認めたのはニュージーランドが先だった。

運動の中心にいたのは、キリスト教婦人矯風会という団体である。もともとは酒の害をなくすことを目的とした団体で、酔った夫の暴力や、酒代で家計が傾く家庭を救おうとしていた。だが酒の販売を規制する法律を作るのは議会で、議員を選ぶのは男性だけだった。女性が票を持たなければ、法は変わらない。こうして禁酒の運動は、参政権の運動へと進んでいった。

ケイト・シェパード記念碑の女性参政権運動家たちの浮彫像(クライストチャーチ)
ケイト・シェパード記念碑の女性参政権運動家たちの浮彫像(クライストチャーチ)Wikimedia Commons Robert Cutts · CC BY 2.0

矯風会で参政権を担当したのが、ケイト・シェパードである。スコットランドに生まれ、若い頃にニュージーランドに渡った。彼女はパンフレットを書き、新聞に寄稿し、議員に手紙を送り続けた。女性は男性に劣らない理性を持つ、家庭を守る者として政治に関わる理由がある、と説いた。

運動が取った方法は署名だった。1891年、約9000人分の署名を集めた請願書が議会に出された。翌年は約2万人。そして1893年、約3万2000人分の請願書が提出された。当時の成年女性のおよそ4人に1人にあたる。署名を貼り継いだ紙は木の棒に巻かれ、議場の床に転がして広げられた。長さは270メートルほどあったという。全国の町や農村を回って一筆ずつ集めたものである。

ケイト・シェパードの肖像
ケイト・シェパードの肖像Wikimedia Commons H. H. Clifford, see https://collection.canterburymuseum.com/objects/243177/glass-plate-negative-kate-w-sheppard · Public domain

反対の中心にいたのは、酒を造り、売る業者だった。女性が票を持てば、禁酒の法律が通ると考えたからである。彼らは対抗する請願を集め、議員に働きかけた。女性は家庭にいるべきだ、政治は女性を汚す、という声も根強かった。

議会の中で法案を繰り返し提出したのは、元首相のジョン・ホールだった。運動の側が署名を集め、議会の内側の味方がそれを議場に持ち込むという役割の分担があった。

1893年の風刺画。保守党への投票を女性に呼びかける政治家ウィリアム・ロールストンを描く
1893年の風刺画。保守党への投票を女性に呼びかける政治家ウィリアム・ロールストンを描くWikimedia Commons William Blomfield (1866–1938) · Public domain

議会でも駆け引きが続いた。下院では法案が通っても、任命制の上院(立法評議会)が何度も阻んだ。1893年、法案に好意的だった首相が亡くなり、後を継いだリチャード・セドンは酒造業界に近く、法案に反対だった。セドンが上院の議員に反対票を投じさせようと工作したところ、それに反発した議員2人が賛成に回り、法案は20対18の2票差で通ったと伝えられる。

選挙はその年の11月に行われた。法の成立から投票日まで10週間ほどしかなかったが、女性たちは急いで有権者名簿に名前を登録した。登録した女性の8割を超える人が投票に行った。先住民のマオリの女性も、マオリ選挙区で投票した。マオリの側でも、女性の政治参加を求める声が上がっていた。同じ1893年、マオリの人々が独自に開いていた議会で、メリ・テ・タイ・マンガカヒアが、土地を持つ女性も多いのだから女性に投票の権利と議員になる権利を認めるべきだと訴えている。反対派は、女性が投票所で混乱を起こすと言っていたが、新聞は落ち着いた投票の様子を伝えた。

メリ・テ・タイ・マンガカーヒアの肖像(1890年代)
メリ・テ・タイ・マンガカーヒアの肖像(1890年代)Wikimedia Commons FW Mason, photographers, Emerson St, Napier, New Zealand · Public domain

ただし、女性が議員になる権利はまだ無かった。被選挙権が認められたのは1919年で、初めて女性の議員が選ばれたのはさらに後の1933年である。選ぶ権利と選ばれる権利のあいだに、40年の開きがあった。

ニュージーランドの例は、海外の運動を励ました。隣の南オーストラリア植民地は翌1894年、女性に選挙権だけでなく被選挙権も認めた。オーストラリア連邦は1902年に続いた。一方、イギリスではエメリン・パンクハーストらが率いるイギリスの女性参政権運動が、デモやハンガーストライキ、ときには破壊行為も辞さない闘いを続けたが、女性の参政権が認められたのは1918年で、それも30歳以上に限られた。男性と同じ条件になったのは1928年である。日本の女性が初めて投票したのは、第二次世界大戦後の1946年だった(女性が初めて投票した日)。

イギリスの女性参政権運動に関わる図版:Annie Kenney and Christabel Pankhurst (cropped)
イギリスの女性参政権運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ニュージーランドで女性が票を得ても、すぐに禁酒法ができたわけではない。全国での禁酒は国民投票で何度も僅差で否決されている。票を持った女性は、酒のことだけを考えて投票したのではなかった。

シェパードはその後も運動を続け、1896年に結成された全国女性評議会の初代会長となった。女性の経済的な自立、離婚法の改正、議会の上院の廃止などを訴え、海外の運動家とも交流した。1934年に亡くなっている。いま彼女の肖像はニュージーランドの10ドル札に描かれている。ウェリントンの議会図書館には、当時の請願書の巻物が保存されている。

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