儒学の官学化
概要
武帝が五経博士を置き、董仲舒の献策で儒学が国の学問になった。以後2000年、官僚は儒学の経典で選ばれる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
董仲舒BC179年頃–BC104年頃 · 献策本文
秦は法家の思想で天下を治め、儒者の書を焼いた(焚書坑儒)。秦を倒した劉邦の漢は、秦の法と役所の仕組みを引き継ぎつつ、長い戦乱で疲れた民を休ませることを優先した。漢の初めの数十年、宮廷で重んじられたのは、黄帝と老子の名を掲げ、なるべく手を加えずに治める「黄老」の考え方である。儒者は宮廷にいたが、主役ではなかった。
紀元前141年、10代半ばで即位した漢の武帝は、儒学を好んだ。ただ、宮廷には黄老を重んじる祖母の竇太后がいて、即位直後に儒者を登用しようとした動きは、太后の怒りで潰された。紀元前136年、武帝は儒学の五つの経典、『詩』『書』『礼』『易』『春秋』について、それぞれ専門の博士を置いた。五経博士である。翌年に竇太后が亡くなると、儒学を重んじる流れははっきりした。

このころ武帝は、各地から推薦された学者に、天下を治める道を問う策問を出した。これに答えたのが董仲舒である。董仲舒は『春秋』を公羊学の立場から学んだ学者で、その答えは「天人三策」と呼ばれる。彼は、天と人とは互いに感応しあい、君主が道を誤れば、天はまず災害で戒め、それでも改めなければ怪異で驚かせる、と説いた。そして、学問が多くの学派に分かれていては民の拠り所が定まらない、六経と孔子の教えに入らないものは、ともに進ませてはならない、と進言した。後世、この方針は「百家を退けて儒術だけを尊ぶ」とまとめられた。ただし、対策がなされた年については紀元前140年説と134年説があり、五経博士の設置との前後関係もはっきりしない。
儒学は役人の登用と結びついた。紀元前124年、博士のもとに50人の弟子が置かれ、学業を修めた者が役人に採られる道が開かれた。これが太学の始まりである。同じ年、儒学を学んだ公孫弘が丞相となり、庶民の出から初めて宰相の座に上った。太学の学生は時代を追って増え、前漢の末には数千人、後漢の後半には3万人に達したと伝えられる。

地方からの登用の道も作られた。紀元前134年、各郡と王国に、親に孝行な者と清廉な者を毎年1人ずつ推薦させる制度が始まった。孝廉と呼ばれるこの推薦は、後漢にかけて役人になる主な道となる。徳のある人物を儒学の価値観で選ぶという考え方が、官僚の世界の入口に据えられたのである。
董仲舒自身は、宮廷で重く用いられたわけではない。地方の王の補佐役を務めたあと、遼東にあった高祖の廟が火事になったとき、それを天の戒めとして論じた草稿を書いた。それが政敵の手で武帝に見せられ、朝政を謗るものとして死罪とされかけ、赦されている。災異で皇帝を戒めるという説は、それほど危うい刃でもあった。晩年は官を退いて学問に専念し、朝廷は大事があると使いを送って意見を求めたという。
儒学が国の学問になったといっても、漢の政治が儒学一色になったわけではない。武帝の時代は、匈奴との大戦争や塩と鉄の専売など、むしろ法家的な政策が際立っていた。のちの宣帝は、儒学を好む皇太子をたしなめて、漢には漢の制度があり、もともと覇道と王道を混ぜて用いてきた、と言ったと『漢書』は伝える。外は儒、内は法、と後世に言われる形である。近年は、儒学が本当に国の唯一の正統になったのは前漢の末から王莽の時代にかけてで、武帝の時代を画期とする見方は後世に作られた、とする研究もある。
それでも、経典を学んだ者を役人に採るという原則は、ここから根を下ろした。隋の時代に始まる科挙(科挙の始まり)は、儒学の経典の知識を問う試験として、20世紀の初めまで続く。皇帝の権力を天の意志で正当化し、同時に天の名で戒めるという董仲舒の論理も、中国の歴代王朝の政治思想の土台になった。孔子が説いた教えは、ここで初めて、帝国を運営する学問になったのである。