できごと

アインシュタインの奇跡の年

Annus Mirabilis papers
AD1905年
重要度 5
アインシュタインの奇跡の年に関わる図版:Einstein patentoffice
Einstein patentoffice Wikimedia Commons Lucien Chavan [ 1 ] (1868 - 1942), a friend of Einstein's when he was living in Berne. · Public domain

概要

特許局の職員が一年で物理学を書き換える論文を4本出した。時間と空間が絶対でなくなる。

場所

ベルン
46.95°N 7.45°E · スイス

関わった人(2)

アインシュタインAD1879年3月14日–AD1955年4月18日 · 当人マックス・プランクAD1858年4月23日–AD1947年10月4日 · 認めた

本文

1905年、スイスの首都ベルンの特許局に、26歳の審査官がいた。肩書は三級技術専門職。毎日、発明の申請書を読み、その仕組みが本当に成り立つかを確かめるのが仕事だった。彼はその年の3月から9月までのあいだに、ドイツの物理学の専門誌に論文を立て続けに送った。光の正体、原子の実在、時間と空間、質量とエネルギー。どれか一本だけでも物理学者として名を残せる内容だった。のちに人々は、ニュートンが重力や光の研究の着想を得た1666年になぞらえて、この年を「奇跡の年」と呼ぶ。審査官の名はアインシュタインという。

アインシュタインは1879年、ドイツ南部のウルムに生まれ、ミュンヘンで育った。権威的な学校を嫌ってギムナジウムを中途で去り、スイスの学校を経て、チューリッヒの連邦工科大学で物理学を学んだ。成績は悪くなかったが、講義をさぼりがちで教授たちの受けが悪く、卒業後は大学の助手の職を得られなかった。家庭教師などで食いつないだのち、友人の父親の口添えで、1902年に特許局に職を得た。

『物理学年報』1905年6月号の目次。アインシュタインの光電効果論文は6番目に載っている
『物理学年報』1905年6月号の目次。アインシュタインの光電効果論文は6番目に載っているWikimedia Commons Nerd271 · CC0

特許局の仕事は、彼にとって悪くなかった。勤務時間は決まっていて、仕事を早く片づければ、空いた時間に自分の考えを進めることができた。ベルンでは、友人たちと「オリンピア・アカデミー」と称する読書会を開き、哲学者ヒュームやマッハ、数学者ポアンカレの本を読んで夜通し議論した。大学の研究室にも、実験の装置にも、同僚の物理学者にも恵まれない環境だったが、そのぶん誰にも縛られなかった。

最初の論文は3月に届いた。光は波である、というのが19世紀の物理学の確立した見方だった。ジェームズ・クラーク・マクスウェルの電磁気の理論は、光を電場と磁場の波として見事に説明していた(電磁場の理論)。ところが、金属に光を当てると電子が飛び出す光電効果には、波では説明しにくい性質があった。飛び出す電子の勢いは、光を強くしても変わらず、光の色(振動数)だけで決まる。アインシュタインは、光はエネルギーの小さな粒の集まりとしてふるまう、と考えればこれが説明できると論じた。5年前にマックス・プランクが、熱い物体が出す光を説明するために、エネルギーがとびとびの値しかとらないと仮定していた(プランクの量子仮説)。アインシュタインはそれを光そのものの性質にまで押し広げた。友人への手紙で、彼は4本のうちこれだけを「とても革命的」と呼んでいる。のちに彼がノーベル物理学賞を受けたのは、相対性理論ではなく、この光電効果の説明に対してだった。

アルベルト・アインシュタインの肖像
アインシュタインWikimedia Commons Oren Jack Turner · Public domain

同じ春、彼はチューリッヒ大学に博士論文も出している。液体に溶けた砂糖の分子の大きさを求める方法を論じたもので、これも当時の重要な問題だった。

5月に届いた論文は、ブラウン運動を扱っていた。水に浮かべた花粉から出た微粒子を顕微鏡で見ると、絶えず不規則に動き回っている。19世紀の前半から知られていた現象だが、理由ははっきりしなかった。アインシュタインは、目に見えない水の分子が四方八方から粒子にぶつかり続けているためだと考え、粒子がどのくらいの速さで散らばっていくかを計算で示した。当時はまだ、原子や分子が本当に存在するのかを疑う有力な学者もいた。数年後、フランスのペランが実験で彼の予測を確かめ、原子の実在を疑う声はほとんど消えた。

フーゴー・エルフルト撮影、マックス・プランクの肖像写真(1938年)
マックス・プランクWikimedia Commons Hugo Erfurth · Public domain

6月に届いたのが、「運動している物体の電気力学について」という題の論文である。これがのちに特殊相対性理論と呼ばれる。出発点は二つの前提だけだった。一つは、等しい速さで動いている観測者にとって、物理の法則はどれも同じ形をとること。もう一つは、光の速さは、光を出す物の動きにかかわらず、誰から測っても同じであること。この二つを両立させようとすると、時間の進み方や物の長さは、観測者によって違っていなければならない。高速で動く時計はゆっくり進み、動く物は進む向きに縮む。「同時」という言葉さえ、見る人によって意味が変わる。ニュートン以来の、宇宙のどこでも同じように流れる絶対の時間という考えが、ここで捨てられた。

この論文には、他の研究への引用がほとんどない。最後に、特許局の同僚で友人のミケーレ・ベッソーへの感謝が一行添えられているだけである。似た数式は、オランダのローレンツやフランスのポアンカレも導いていた。ただ、それを時間と空間の見方そのものの変更として示したのは、アインシュタインだった。誰の功績がどこまでかについては、今も科学史家のあいだで議論がある。

9月には、3ページほどの短い論文が届いた。相対性理論から導かれる結果として、物体がエネルギーを放出すれば、その分だけ質量も減ることを示したものである。質量とエネルギーは同じものの二つの姿であり、その換算の比率は光の速さの2乗になる。いまE=mc²と書かれる関係である。わずかな質量の中に莫大なエネルギーが潜んでいることを意味するこの式は、のちに太陽が輝く仕組みの説明につながり、40年後にはマンハッタン計画で原子爆弾として現実のものになる。

マンハッタン計画に関わる図版:Time, 3-22 p.m, December 2, 1942. Place, Racquets Court under West Stands of Stagg Field, University of Chicago.... - NA
マンハッタン計画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

発表されても、すぐに世界が驚いたわけではない。反応は静かだった。最も早く相対性理論の価値を認めた大物の一人が、ベルリンのプランクである。彼は翌年からこの理論を講義で取り上げ、自ら研究を進めた。1908年には、かつてアインシュタインを教えた数学者ミンコフスキーが、時間と空間を合わせた四次元の「時空」として理論を書き直した。学生時代のアインシュタインを怠け者と評していたと伝えられる教師が、その理論の最良の紹介者の一人になった。

アインシュタインが特許局を辞めて大学の職に就いたのは、1909年のことである。そこから彼は、重力を含めたより大きな理論に取り組み、10年がかりで一般相対性理論を完成させる。1919年の日食の観測で、太陽の近くを通る星の光が理論どおりに曲がっていることが確かめられると、彼は一夜にして世界で最も有名な科学者になった。

時計塔
時計塔Wikimedia Commons Dean Dalton · Public domain

1905年の論文は、20世紀の物理学の二つの柱の両方に礎を置いた。光の粒の考えは、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクらによる量子力学へと続き、相対性理論は宇宙の始まりと膨張を語る宇宙論の土台になった。皮肉なことに、量子の扉を開いた当人は、のちに量子力学が描く確率の世界を最後まで受け入れなかった。「神はサイコロを振らない」という彼の言葉は、その抵抗をよく表している。特許局の机の上で、誰の指導も受けずに書かれた数本の論文が、私たちの住む世界の見方を根底から変えた。

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