塩鉄会議
概要
国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
漢の武帝は、半世紀を超える治世のあいだ、北の匈奴と戦い続けた。祖父や父の代までは、匈奴に贈り物と皇族の娘を送って和を保っていたが、武帝はそれを改め、大軍を草原の奥へ送り込んだ。西域へ道を開き、南の南越や東の朝鮮にも兵を出した。国は広がったが、祖父と父が蓄えた蔵の銭と穀物は、たちまち底をついた。
そこで武帝は、商売の利益を国が取り上げる道を選んだ。紀元前119年ごろから、塩と鉄を国の専売にした。塩を煮る道具と鉄を鋳る作業を国の役所が握り、民間の製造と販売を禁じた。この政策を担ったのは、洛陽の商人の家に生まれた桑弘羊らで、計算に長けた彼らは武帝に重く用いられた。さらに、地方の産物を役所が買い集めて値の高い土地へ運ぶ「均輸」、物の値段が安いときに買い、高いときに売って値を安定させる「平準」を始め、のちには酒の製造も国が独占した。商人や富豪に重い財産税を課し、隠した者を密告させる法も出した。
国庫は潤い、戦は続けられた。その代わりに、大商人の富は国に吸い上げられ、民の暮らしには重しがかかった。
紀元前87年、武帝が死に、8歳の昭帝が即位した。政治は、武帝が遺言で後見を託した大将軍の霍光と、御史大夫となった桑弘羊らが担った。
紀元前81年、朝廷は全国から、学問と徳のある者として推薦された「賢良」と「文学」の儒者60人あまりを都の長安に呼んだ。民の苦しみがどこにあるかを問う、という名目だった。儒者たちは、塩と鉄と酒の専売、均輸をやめるよう求めた。答えに立ったのは、専売を作った当人の桑弘羊だった。
儒者たちは言った。国が商売をすれば、民と利を争うことになる。役所の作る鉄の農具は質が悪く、値が高く、民の手に合わない。専売で利益を求める役人が増えれば、民は贅沢を覚え、農業という国の本を捨てて商売という末に走る。国を治めるのは利ではなく、道徳と礼である。徳があれば、遠くの異民族も自ずと従う。
桑弘羊が答えた。専売がなければ、匈奴と戦う金が無い。辺境の守りを捨てれば、民は殺され、奪われる。山と海の産物は本来、天下のもので、一部の富豪が独り占めするより、国が管理して皆のために使うほうがよい。商売が行われてこそ、物が国中を巡る。古い書物ばかり読んで、着る物にも困っている儒者に、国の実際が分かるのか、とまで言い放った。
議論は何日にも及んだとされる。結論は、酒の専売を廃止し、一部の地域の鉄の役所を廃するという、小さな譲歩にとどまった。塩と鉄の専売の大部分は残った。
この会議には、表の議論とは別の顔があった。背後には、霍光と桑弘羊の権力争いがあったと見られている。儒者たちに桑弘羊の政策を批判させることで、霍光は相手の力を削ごうとしたのだろう、という見方である。翌年、桑弘羊は、上官桀らとともに霍光を倒そうとした謀反の罪で処刑された。霍光はその後、帝位の廃立まで行うほどの権力を握る(霍光の昌邑王廃位)。
議論の記録は、次の宣帝の時代に、桓寛が整理して『塩鉄論』にまとめた。60の篇に分かれ、儒者と役人が問答する形で書かれている。桓寛は儒者の側に心を寄せていたが、桑弘羊の主張も削らずに残した。
国家が経済を握るべきか、市場に任せるべきか。民の暮らしのために利を求めることは悪なのか。2000年前の朝廷の論争が、いまの言葉でもそのまま通じる問いを含んでいる。『塩鉄論』は、その論争の最古の記録の一つになる。
専売の考え方は、春秋時代に斉の管仲が塩と鉄で財政を支えたという伝えにまでさかのぼり、その後の中国の王朝にも受け継がれた。塩の専売は、とりわけ長く続いた。王朝の財政を支える一方で、密売する者たちが反乱の担い手になったこともある。唐を揺るがした黄巣も、塩の密売人の出だった。日本でも塩は長く国の専売で、その法律が廃止されたのは1997年のことになる。