エスペラント
概要
ビャウィストクは、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語が入り混じる町だった。眼科医ザメンホフは、諍いの根に言葉の壁があると考えた。誰の母語でもない、学びやすい共通語を作る。文法は十六の規則で、例外が無い。語彙は主にロマンス語とゲルマン語から採った。ドクトーロ・エスペラント、希望する者、という筆名で出した小冊子が、書名ではなく言語の名になった。話者は数十万から二百万と推定が割れる。国家に採用されたことは、一度も無い。
場所
52.23°N 21.01°E · ポーランド
関わった人(1)
ルドヴィコ・ザメンホフAD1859年12月15日–AD1917年4月14日 · 作った本文
19世紀の半ば、ビャウィストクはロシア帝国の西の端にある町だった。いまのポーランドの北東部にあたる。かつてのポーランドの国は分割されて消え(ポーランド分割)、この町にはいくつもの民族が入り混じって暮らしていた。ポーランド語を話すポーランド人、ロシア語を話す役人や軍人、ドイツ語を話す工場の経営者や職人、そしてイディッシュ語を話すユダヤ人。人口の過半数はユダヤ人だった。それぞれの集団は別々の言葉を話し、互いに反目し合っていた。
1859年、この町のユダヤ人の家庭に、のちに言語を作ることになるルドヴィコ・ザメンホフが生まれた。後年、彼は知人に宛てた手紙で、少年時代をこう振り返っている。町の住民は四つの異なる集団から成り、それぞれが別の言葉を話して、ほかのすべてに敵意を抱いていた。こういう町では、感じやすい者は、言葉の違いこそが人々を分けるすべての原因だと痛切に感じる。自分は大人になったら、必ずこの悪を取り除こうと心に決めた、と。

父のマルクはドイツ語とフランス語を教える教師で、厳格で現実的な人だった。息子が若いころから取り組んでいた新しい言語の計画を、父は危うい夢想と見た。医学の勉強に打ち込ませるために原稿を預かり、息子が大学から戻ってみると、原稿は焼かれていたという。ザメンホフは記憶を頼りに、一から書き直した。
この話は後年の回想によるものである。彼はモスクワとワルシャワで医学を学び、眼科医になった。ワルシャワの貧しいユダヤ人の多い地区で診療し、貧しい患者からはしばしば診察料を取らなかった。

言語を人工的に作ろうという試みは、それまでにもいくつもあった。17世紀には、イギリスのジョン・ウィルキンズやドイツのライプニッツが、世界のあらゆる概念を体系的に分類して記号を割り当てる「哲学的言語」を構想したが、あまりに複雑で、人が話す言葉にはならなかった。1879年には、ドイツの神父ヨハン・マルティン・シュライヤーがヴォラピュクという言語を発表し、一時は数十万人の支持者を集めたとも言われた。だが文法は複雑で、動詞の形は膨大な数にのぼった。改良を求める声に創始者が耳を貸さず、運動は分裂して急速にしぼんでいった。ザメンホフは、その失敗を見ていた。
1887年7月26日、ザメンホフはワルシャワで、ロシア語で書いた40ページほどの小冊子を出した。題は『国際語』。印刷の費用は、妻クララが嫁ぐときに持ってきた持参金から出た。著者の名は本名ではなく、「ドクトーロ・エスペラント」とした。新しい言語で「希望する者である博士」という意味である。この筆名が、やがて言語そのものの名前になった。

その文法は、わずか16の規則にまとめられ、例外が一つも無い。語の品詞は語尾を見れば分かる。名詞はオ、形容詞はア、副詞はエで終わり、動詞の原形はイで終わる。複数を表すにはイを付け、目的語にはンを付ける。
動詞の過去・現在・未来は、イス、アス、オスという語尾で表し、主語の人称によって形が変わることは無い。単語は主にラテン語系の言葉とゲルマン系の言葉から採り、スラヴ系の言葉からも少し取り入れた。綴りと発音は一対一に対応していて、書いてある通りに読めばよい。

覚える単語の数を減らす工夫もあった。語の前後に決まった部品を付けることで、新しい語を次々に作れるのである。たとえば、反対の意味を表す「マル」という部品を「良い」という語の頭に付ければ、「悪い」という語ができる。「悪い」を別に覚えなくてよい。こうした工夫で、学ぶ人の負担は大きく減った。
小冊子は、ロシア語に続いてポーランド語、フランス語、ドイツ語でも出され、少しずつ学ぶ人が増えていった。1905年には、フランス北部の港町ブローニュ=シュル=メールで、第1回の世界エスペラント大会が開かれた。20ほどの国から約700人が集まり、互いの母語を介さずに、エスペラントで語り合った。この大会で採択された宣言は、エスペラントは誰の持ち物でもないこと、そして言語の基礎の部分は変えないことを確認した。改革をめぐって分裂したヴォラピュクの教訓である。

ザメンホフ自身は、運動の指導者として祭り上げられることを避けた。自分はこの言語の持ち主ではなく、作った者にすぎない、言語はもう使う人々のものだ、という趣旨のことを大会で語っている。それでも、運動の内部の対立は避けられなかった。1907年には改良を唱える一派が「イド」という別の言語を立ち上げて離れていったが、イドはやがて勢いを失った。
国境を越えて人と人とを直接つなごうとするこの言語は、20世紀の独裁者たちから繰り返し狙われた。ヒトラーは『わが闘争』の中で、エスペラントをユダヤ人が世界を支配するための道具であるかのように書いた。ナチス・ドイツは1936年にエスペラントの団体を禁じ、エスペランティストを迫害した。ザメンホフの三人の子ども、アダム、ゾフィア、リディアは、いずれもホロコーストの中で命を落とした。アダムは1940年にワルシャワで銃殺され、ゾフィアとリディアはトレブリンカの絶滅収容所で殺された。リディアは、父の言葉と思想を伝えるために世界を旅して回った人だった。

ソ連でも、1930年代の大粛清の中で、エスペラントで外国と文通していた人々が、外国のスパイの疑いをかけられて大量に逮捕され、多くが処刑されたり収容所へ送られたりした。日本でも戦時中、エスペラントの運動は特別高等警察の監視の対象になった。理由は同じである。国家を通さずに国境を越えて人がつながることを、国家は嫌った。
国際的な公用語にしようという動きもあった。1920年代の初め、国際連盟の発足の後の総会で、エスペラントを学校で教えることを各国に勧める提案が出された。だが、外交の言葉としてのフランス語の地位を守ろうとするフランスが強く反対し、提案は実を結ばなかった。結局、エスペラントは、どこかの国の公用語として採用されたことは一度も無い。

それでも、エスペラントは百三十年以上生き延びてきた。その間に生まれた数多くの人工言語のほとんどが消えていった中で、これほど長く、これほど多くの人に使われてきたものは他に無い。話せる人の数は、話せるという基準の取り方によって、数万人から二百万人までと推定が大きく割れている。両親がエスペラントで話す家庭に生まれ、母語のように身につけて育った人も、千人ほどいると言われる。インターネットの百科事典には数十万の項目を持つエスペラント版があり、言語を学ぶアプリで学ぶ人もいる。
ザメンホフは、1917年4月14日、ワルシャワで57歳の生涯を終えた。第一次世界大戦のさなかだった。人と人とを隔てる壁を取り除くために作った言語の話し手たちが、ヨーロッパの戦場で互いに殺し合っているさなかに、彼は世を去った。最晩年の彼は、戦争の後の国と国との関係について構想を書き残そうとしていたが、それは未完のまま残された。