ソクラテスの死

概要
国家の神を認めず若者を惑わしたとして死刑になり、毒杯を仰いだ。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(2)
ソクラテスBC470年頃–BC399年 · 当人クリティアスBC460年–BC403年 · 元弟子だったことが罪状に本文
紀元前399年の春、アテネで70歳のソクラテスが裁判にかけられた。訴えたのは、詩人のメレトス、政治家のアニュトス、弁論家のリュコンの3人である。罪状は、国家が認める神々を認めず、新しい神霊を持ち込んだこと、そして若者を堕落させたことだった。
ソクラテスはアテネの石工の家に生まれたとされる。獅子鼻で目が飛び出した風采の上がらない姿だったと、弟子たちは書き残している。重装歩兵として何度も戦争に出たが、それ以外はほとんど町を出ず、広場や運動場で人々をつかまえては、勇気とは何か、正義とは何かと問いかけた。友人がデルフォイの神託に、ソクラテスより知恵のある者はいるかと尋ねると、いないという答えが返ってきた。ソクラテスはこの意味を確かめようと、知恵があると評判の人々を訪ね歩いた。その結果、彼らは知らないことを知っていると思い込んでいるが、自分は知らないことを知らないと自覚している、その点で少しだけ知恵があるのだと考えた、とプラトンは書いている。

問い詰められて答えに詰まった有力者たちは、恥をかかされたと感じた。一方で、裕福な家の若者たちは、大人がやり込められるのを面白がってソクラテスについて回り、そのやり方をまねた。紀元前423年には、喜劇作家アリストファネスが『雲』で、ソクラテスを怪しげな理屈をこねる人物として笑いものにしている。
裁判の背景には、アテネの敗戦があった。紀元前404年、アテネは長いペロポネソス戦争でスパルタに敗れた。その後、スパルタの後ろ盾で三十人政権が権力を握り、多くの市民を処刑した。その中心にいたクリティアスは、かつてソクラテスのそばにいた若者の一人だった。戦争の途中で敵のスパルタへ寝返ったアルキビアデスも、ソクラテスと親しかった。翌年に民主政が回復すると、過去の罪を問わないという大赦が定められた。そのため政治的な理由では訴えられず、宗教と若者の堕落が罪状にされたのではないかと考えられている。

裁判では、くじで選ばれた500人ほどの市民が陪審を務めた。プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、ソクラテスは弁明の中で、自分は神に命じられてアテネという大きな馬にまとわりつく虻の役目を果たしてきたのだと述べた。有罪の評決は僅差で、あと30票が無罪に回れば無罪だったと、ソクラテス自身が語っている。
アテネの裁判では、有罪と決まった後、訴えた側と訴えられた側がそれぞれ刑を提案し、陪審がどちらかを選んだ。訴えた側は死刑を求めた。ソクラテスは、自分にふさわしいのは国の功労者のように公費で食事を与えられることだと言い、陪審を怒らせた。その後、友人たちの保証で罰金を払う案を出したが、死刑の票は有罪のときより増えたと伝えられる。

刑はすぐには執行されなかった。ちょうどアテネからデロス島へ祭りの船が出ていて、船が戻るまで処刑が禁じられていたからだ。そのあいだ、ソクラテスは獄中で友人たちと語り合った。旧友のクリトンは看守を買収して脱獄させる手はずを整えたが、ソクラテスは断った。プラトンの『クリトン』によれば、これまで国の法に守られて生きてきた自分が、都合が悪くなったからといって法を破れば、自分の一生が筋の通らないものになる、というのがその理由だった。
最後の日の様子は、プラトンの『パイドン』に描かれている。ソクラテスは友人たちと魂が不死であるかどうかを論じ、夕方、毒にんじんの杯を静かに飲み干した。泣き崩れる友人たちをたしなめ、足が重くなるまで歩き、横になった。最後の言葉は、クリトン、アスクレピオスに雄鶏を一羽借りている、返しておいてくれ、だったという。プラトンはこの日、病気でその場にいなかったと自ら書いており、描写には彼の考えが込められていると見られている。

ソクラテスは自分では一行も書き残さなかった。その姿は、弟子のプラトンと、軍人で著述家のクセノフォンの著作を通して伝わる。二人の描くソクラテスはかなり違い、プラトンのソクラテスは鋭い哲学者、クセノフォンのソクラテスは常識的な人生の助言者に近い。どこまでが本人の考えで、どこからがプラトン自身の思想なのかは、哲学史の大きな問題になっている。
師の死に衝撃を受けたプラトンは、政治の道をあきらめ、哲学に生涯を捧げた。のちにプラトンのアカデメイアを開き、そこからアリストテレスが育つ。正しいとは何かを問い続け、そのために死を受け入れた一人の老人の姿は、西洋の哲学の出発点として語り継がれてきた。同時にこの裁判は、民主政が多数決で一人の市民を死なせた出来事として、民主政の弱さを論じるときにも繰り返し持ち出されてきた。

1787年、フランスの画家ダヴィッドは、毒杯に手を伸ばしながら天を指して語り続けるソクラテスを描いた。この絵はいまニューヨークのメトロポリタン美術館にあり、ソクラテスの死のイメージとして広く知られている。