人物

オッカムのウィリアム

William of Ockham
AD1287年頃 – AD1347年(享年60・推定)
イングランド王国重要度 4

概要

サリーの村の名を名乗るフランシスコ会士。普遍は実在せず名前にすぎない、と論理で切った。「剃刀」。清貧をめぐって教皇と争い、ミュンヘンの皇帝の宮廷に逃げ、教皇は異端だと書き続けた。黒死病の年に死んだ。

関わったできごと(1)

オッカムの剃刀AD1320年頃 · 哲学者

本文

オッカムのウィリアムは、1287年頃、イングランド南部サリーのオッカム村で生まれたとされる。名は生まれた村から取られたもので、家族や少年時代のことは分からない。若くしてフランチェスコ会(フランチェスコ会の認可)に入り、オックスフォードで神学を学んだ。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

1317年から1319年頃、オックスフォードで、神学の標準の教科書であったペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を講義した。神学の博士になる一歩手前まで進んだが、学位は取らなかった。そのため後世、「尊敬すべき初学者(ウェネラビリス・インケプトル)」と呼ばれる。学位を取れなかったのは、その教えが疑われたからだった。

ウィリアムの哲学の中心にあるのは、存在するのは一つ一つの個物だけだ、という考えである。人間一般や白さ一般といった普遍は、心の外にあるものではなく、多くの個物をまとめて指すために心が使う記号にすぎない。彼は、言葉と心の中の概念がどのように物を指すのかを細かく分析し、それを1320年代前半の『論理学大全』にまとめた。この立場はのちに唯名論(名目論)と呼ばれる。中世の神学者の多くが前提にしていた普遍の実在を退けたもので、トマス・アクィナスらの総合とは違う方向へ哲学を進めた。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

説明に必要のないものを増やすな、という原理は、のちに「オッカムの剃刀」と呼ばれるようになった(オッカムの剃刀)。ただし、よく引かれる「存在者はみだりに増やすべきではない」という定式は彼自身の文章には見られず、17世紀ごろに広まったものとされる。彼が書いたのは、必要なしに多くを立ててはならない、少ないもので説明できることを多いもので説明するのは無駄である、といった言い方だった。

一方で、彼は神の絶対的な力を強調した。神は矛盾しないことなら何でもできる。たとえば、存在しないものを見ているという知覚を人に起こすことさえできる。この考えは、自然の秩序は神の自由な意志に依存しているという見方につながった。

ドゥンス・スコトゥスの肖像画
ドゥンス・スコトゥスの肖像画Wikimedia Commons Justus van Gent / Pedro Berruguete · Public domain

1323年頃、オックスフォードの元総長ジョン・ラタレルが、ウィリアムの教えから異端の疑いのある命題を抜き出して、アヴィニョンの教皇庁に送った(教皇のアヴィニョン捕囚)。1324年、ウィリアムはアヴィニョンに呼び出され、審査を受けた。委員会は疑わしい命題を挙げたが、正式な断罪には至らないまま年月が過ぎた。

アヴィニョンで、ウィリアムはもう一つの争いに巻き込まれた。フランチェスコ会は、キリストと使徒たちは何も所有しなかったと考え、清貧をその根本としていた。教皇ヨハネス22世は1323年、この考えを異端と宣言した。フランチェスコ会の総長チェゼーナのミケーレはこれに抵抗し、ウィリアムに教皇の文書を調べるよう命じた。調べたウィリアムは、教皇の主張こそが異端だという結論に達した。

1328年5月、ウィリアムはミケーレら数人の修道士とともに、夜のうちにアヴィニョンを抜け出し、南フランスの港から船でイタリアへ渡った。そこで教皇と争っていた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。教皇は彼らを破門した。ウィリアムはやがて皇帝の宮廷のあるミュンヘンに移り、フランチェスコ会の修道院で、残りの生涯の20年近くを過ごした。

ミュンヘンでのウィリアムは、政治と教会についての論文を次々に書いた。教皇は誤りうる。公会議も誤りうる。誤らないのは聖書と、真の信仰を持つ者たちの共同体だけであり、真の信仰は、たとえ一人の女性や子どもの中にしか残らなくても、教会は滅びない。皇帝の権力は教皇から与えられるのではなく、神から民を通じて与えられる。こうした主張は、教皇の権威を相対化するものとして、のちの公会議主義や宗教改革の議論にも影響を与えた。

1347年10月、保護者のルートヴィヒ4世が死んだ。ウィリアムの死は、1347年4月とする説が有力だが、1349年とする説もある。黒死病(黒死病)で死んだと書かれることがあるが、疫病がミュンヘンに達したのは1348年以降とされ、確かではない。晩年に教皇との和解を求めたという話も伝わるが、裏づけは乏しい。彼がフランチェスコ会の総長の印章を、新しい会の指導部に返したことは記録に残っている。

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