アレクサンドロスの東方遠征

概要
20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。
この物語について
二十歳で王になった男が、十年で東の果てまで行った。復讐という名分は、途中で別のものに変わっていく。
出発点は、父の作った国だった。マケドニアはギリシアの北の辺境にある王国で、アテネやスパルタの人々からは半ば異民族と見られていた。それを一代で強国に変えたのがフィリッポス2世である。長い槍を持つ密集歩兵(ファランクス)と重装騎兵を組み合わせた軍を育て、金山を押さえ、ギリシアの都市国家を一つずつ取り込んでいった。アテネの弁論家デモステネスは、市民に向けてフィリッポスへの警戒を説く演説を繰り返したが、前338年のカイロネイアでアテネとテーバイの連合軍は敗れる。このとき十八歳のアレクサンドロスは騎兵を率いて戦った。

王子の教育には、哲学者アリストテレスが招かれていた。前343年ごろから数年間、マケドニアの地方の町ミエザで、十三歳の王子は学問の手ほどきを受けた。アレクサンドロスは遠征にも『イリアス』の写本を持ち歩き、枕の下に短剣と並べて置いていたとプルタルコスは伝えている。
フィリッポスはギリシアの諸都市を同盟にまとめ、その盟主としてペルシアへの遠征を準備していた。名分は、百五十年前にペルシア軍がギリシアの神殿を焼いたことへの報復である。だが前336年、娘の婚礼の祝宴の場で、フィリッポスは護衛の一人に刺し殺された。王妃オリュンピアスが背後にいたのではないかという疑いは当時からあったが、確かめようがない。二十歳のアレクサンドロスが王位を継いだ。

新王はまず足元を固めた。反乱を起こしたテーバイを前335年に攻め落とし、街を破壊して住民を奴隷に売った。詩人ピンダロスの家だけは残させたと伝えられる。見せしめは効き、ギリシアの諸都市は再び従った。
前334年春、アレクサンドロスは歩兵三万あまり、騎兵五千ほどの軍でヘレスポントス海峡を渡った。最初の会戦はグラニコス川で、王は自ら騎兵の先頭で川を渡り、危うく命を落としかけた。小アジアの諸都市を解放しながら進み、ゴルディオンでは、解いた者がアジアの王になるという結び目を剣で断ち切ったという話が残る。

前333年、ダレイオス3世が自ら率いるペルシアの大軍と、イッソスで向き合った。狭い海岸の平地では数の差が生きない。アレクサンドロスの騎兵が王の本陣へ突き進むと、ダレイオスは戦車を捨てて逃げ、母と妻と娘たちを残していった。アレクサンドロスは捕らえた王族を王族として遇したと伝えられる。
すぐには追わなかった。ペルシアの艦隊の基地を奪うため、地中海の沿岸を南へ下る。島の上の都市ティルスは七か月にわたって抵抗し、マケドニア軍は海を埋め立てて堤を築き、攻城塔を押し出して前332年にようやく陥とした。エジプトは戦わずに迎え入れ、ナイル河口の西に新しい都市アレクサンドリアが建設された。王はさらに砂漠を越えてシワのオアシスにあるアモン神の神殿を訪ね、神官から「神の子」と呼ばれたとされる。

前331年10月、ティグリス川の東、ガウガメラの平原で最後の決戦が行われた。ダレイオスは鎌を付けた戦車を走らせるために地面を平らに均して待っていたが、アレクサンドロスは斜めに移動して敵の戦列を引き延ばし、生じた隙間へ騎兵を突き入れた。ダレイオスは再び逃げた。マケドニア軍はバビロンに入城し、スーサ、ペルセポリスの宝庫を手に入れる。前330年、ペルセポリスの王宮は炎に包まれた。報復として意図的に焼いたのか、酒宴の勢いだったのかは、古代から説が分かれている。
同じ年の夏、逃げるダレイオスは、部下のバクトリア総督ベッソスに裏切られて殺された。追いついたアレクサンドロスは亡骸に自分のマントをかけ、王の墓に葬らせたとプルタルコスは書く。この時点で報復の名分は果たされた。ギリシアの同盟軍は帰国を許されたが、アレクサンドロスは止まらなかった。

このころから、王と古参の将兵の間に溝ができていく。アレクサンドロスはペルシア風の衣装を取り入れ、ペルシア人の貴族を重く用いた。前330年、陰謀に連座したとして将軍フィロタスが処刑されると、その父で父王以来の老将パルメニオンも、遠く離れた任地で口を封じられた。前328年には、酒宴の席で王を批判した重臣クレイトスを、王が自ら槍で刺し殺した。さらに、ペルシア式の跪拝を宮廷に持ち込もうとして、歴史家カリステネスらの反発を受けた。カリステネスはのちに陰謀の嫌疑で死んでいる。
中央アジアのバクトリアとソグディアナでは、ベッソスを捕らえて処刑したあとも、地元の勢力の抵抗が二年あまり続いた。アレクサンドロスは山の砦を一つずつ攻め、最後にはソグディアナの有力者の娘ロクサネを妃に迎えることで地域を収めた。

前326年、軍はインダス川を渡ってパンジャーブに入った。ヒュダスペス川で戦象を並べた王ポロスを破ったあと、捕らえたポロスにどう扱われたいかと尋ねると、「王として」と答えたという逸話がある。アレクサンドロスは彼に領地を返した。だがさらに東、ヒュファシス川まで来たとき、兵たちが前進を拒んだ。八年近く歩き続け、故郷から数千キロ離れた兵に、もう先へ行く理由はなかった。王は三日間天幕にこもったのち、引き返すことを決めた。ここがアレクサンドロスの東方遠征の東の端になった。
帰り道も苦しかった。インダス川を下る途中の攻城戦で王は胸に矢を受けて重傷を負い、その後の海沿いのゲドロシア砂漠の行軍では、多くの兵と随行者が渇きと飢えで死んだ。前324年、スーサに戻った王は、自らペルシアの王女と結婚し、側近八十人あまりにもペルシア貴族の娘を娶らせた。マケドニア人とペルシア人を一つの支配層にまとめる構想だったと見る研究者もいれば、そこまで大きな意図はなかったとする見方もある。

その年の秋、最も親しい友ヘファイスティオンが熱病で死んだ。王の嘆きは常軌を逸していたと伝えられる。そして前323年6月、バビロンで、アレクサンドロス自身が高熱に倒れ、十日ほどで死んだ。三十二歳だった。死因はマラリアなどの病とされることが多いが、毒殺の噂も当時からあり、確かなことは分からない。後継者を問われて「最も強い者に」と答えたという話が残るが、これも後世の伝えである。
王の死後、帝国は将軍たちの争いの場になった。摂政となったペルディッカスはエジプトを攻めてナイルの渡河に失敗し、部下に殺される。王の遺児アレクサンドロス4世とロクサネは、マケドニアを握ったカッサンドロスによって殺され、王の血筋は十数年で絶えた。帝国の再統一に最も近づいた老将アンティゴノスも、前301年のイプソスの戦いで敗死する。こうして、エジプトのプトレマイオス1世、シリアからイランを押さえたセレウコス1世、そしてマケドニア本国の王朝が並び立つ形が固まった。

この分割が、その後300年のヘレニズム世界の枠組みになった。アレクサンドリアは図書館と学問の中心になり、ギリシア語はエジプトからインドの入口まで、役人と商人の共通語になった。バクトリアに残ったギリシア人の王国は二百年近く続き、その流れをくむメナンドロス王と仏僧との問答が、仏典『ミリンダ王の問い』として伝わっている。ギリシア風の彫刻の技法は、のちのガンダーラの仏像にも影響を与えたとされる。最後のヘレニズム王朝、プトレマイオス朝のクレオパトラが前30年に死に、この世界はローマに呑み込まれた。
アレクサンドロスが何を目指していたのかは、本人の言葉が残らないため、いまも分からない。征服欲に駆られた暴君とも、民族を超えた世界を夢見た人物とも描かれてきた。確かなのは、十一年の遠征が地中海とインドのあいだの人と物と考えの行き来を、それ以前とは比べものにならないほど太くしたことである。そして、一人の才能に頼った帝国は、その一人が死ねば保たないことも、同時に示した。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(49)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- マケドニア国? – BC168年(ピュドナの戦い)ギリシア北方の王国。フィリッポス2世がギリシアを制し、アレクサンドロスがインダス川まで到達した。帝国は死後に分裂し、本国はローマに滅ぼされる。
- アケメネス朝ペルシア国BC550年 – BC330年倒された側エジプトからインダスまでを収めた最初の世界帝国。ギリシアへの遠征に失敗し、最後はアレクサンドロスに滅ぼされた。
- パルメニオン人物BC400年頃 – BC330年私がパルメニオンならフィリッポスの右腕で、アレクサンドロスの副司令官。グラニコス、イッソス、ガウガメラで左翼を率いた。慎重で、王に「私がパルメニオンなら、そうする」と言われた。息子が処刑され、自分は70歳でエクバタナで刺された。
- アリストテレス人物BC384年 – BC322年家庭教師哲学者。若きアレクサンドロスの家庭教師をつとめた。
- デモステネス人物BC384年 – BC322年小石を口に後見人に財産を奪われ、法廷で取り戻すために弁論を学んだ。口に小石を含み、波に向かって叫んだと伝わる。フィリッポスに14年反対し、カイロネイアで盾を捨てて逃げ、アレクサンドロス死後の反乱で追われ、神殿で毒を飲んだ。
- フィリッポス2世人物BC382年 – BC336年マケドニアを軍事強国に変え、カイロネイアでギリシアを制した。東方遠征の準備中に暗殺される。
- アンティゴノス人物BC382年 – BC301年再統一に最も近づき、81歳で戦死した「隻眼」。後継者戦争で最大の勢力を築き、帝国の再統一に最も近づいた。81歳でイプソスに立ち、他の全員に囲まれて戦死した。
- ダレイオス3世人物BC380年頃 – BC330年アケメネス朝最後の王。イッソスとガウガメラで敗れ、逃走中に臣下に殺された。
- オリュンピアス人物BC375年頃 – BC316年夫の暗殺に関わったと疑われた母アレクサンドロスの母。蛇を飼い、夫フィリッポスの暗殺に関わったと疑われた。息子の死後、後継争いで孫を守ろうとして敗れ、殺された兵の遺族に石で打たれた。
- プトレマイオス1世人物BC367年頃 – BC282年アレクサンドロスの将軍。エジプトを継ぎ、クレオパトラ7世まで続く王朝を開いた。
- カリステネス人物BC360年頃 – BC327年アリストテレスの甥アリストテレスの甥で弟子。遠征の公式記録者として、王を神の子と書いた。跪拝を拒んで「私は死すべき人間の名誉で満足する」と言い、獄で死んだ。彼の記録は残らず、彼の名で伝説の『アレクサンドロス物語』が書かれた。
- セレウコス1世人物BC358年頃 – BC281年アレクサンドロスの将軍。帝国の東半分を継ぎ、セレウコス朝を開いた。
- アレクサンドロス3世人物BC356年7月20日(21日説あり) – BC323年6月10日(11日説あり)11年でギリシアからインダス川まで到達し、ペルシア帝国を滅ぼした。32歳でバビロンに没し、帝国は将軍たちに分裂する。
- ヘファイスティオン人物BC356年頃 – BC324年「この人もアレクサンドロスだ」アレクサンドロスの幼なじみで、最も近い友。ダレイオスの母が王と間違えて拝んだとき、王は「この人も私だ」と言った。エクバタナで病死し、王はその8か月後に死ぬ。
- カッサンドロス人物BC355年頃 – BC297年血を絶やしたアンティパトロスの息子。アレクサンドロスに嫌われ、その死後にマケドニアを取った。王の母オリュンピアスを殺し、妻ロクサネと息子を殺し、王の異母妹と結婚した。アレクサンドロスの血を絶やした人で、テッサロニキとカッサンドレイアを建てた。
- デモステネスの『フィリッポス弾劾』できごとBC351年弾劾演説の語源吃音を小石で直した弁論家が、北の王がギリシアを飲み込むとアテナイに叫んだ。13年、叫び続けた。カイロネイアで負け、アレクサンドロスの死後にまた立ち上がり、追われて毒を飲んだ。「弾劾演説」という言葉がここから来た。アテナイ
- ロクサネ人物BC340年頃 – BC310年岩の砦の娘ソグドの貴族の娘で、岩の砦で捕えられ、アレクサンドロスが恋をして結婚した。王の死後に息子を産み、王の他の妻を毒殺し、息子と共にカッサンドロスに幽閉されて殺された。息子は13歳だった。
- カイロネイアの戦いできごとBC338年8月2日父がギリシアを制するフィリッポス2世がアテナイ・テーバイ連合軍を破り、ギリシアの都市国家の時代が終わった。18歳のアレクサンドロスが左翼を指揮した。カイロネイア

- フィリッポス2世暗殺できごとBC336年20歳で王位が回ってくる東方遠征の準備中に護衛に暗殺された。20歳のアレクサンドロスが王位を継ぐ。ペラ
- ディオゲネスとアレクサンドロスできごとBC336年日陰になるからどいてくれギリシアの総司令官になった若い王が、樽に住む哲学者を訪ねた。「何か望みは」「日陰になるからどいてくれ」。王は「私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」と言った。作り話かもしれないが、二人はその年に同じ街にいた。コリントス

- テーバイの破壊できごとBC335年ピンダロスの家だけ残したフィリッポスの死で「アレクサンドロスは死んだ」と噂が立ち、テーバイが守備隊を囲んだ。20歳の王は北の遠征から13日で戻り、街を落として、6000人を殺し、3万人を売り、詩人ピンダロスの家だけ残して壊した。ギリシアは黙った。翌年、アジアへ。テーバイ
- グラニコス川の戦いできごとBC334年5月アジアに渡って最初の会戦。渡河しながらの突撃でペルシアの太守軍を破った。グラニコス川(位置は特定されていない)

- アレクサンドロスの東方遠征できごとBC334年11年でギリシアからインダス川まで到達し、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした。
- イッソスの戦いできごとBC333年11月狭い海岸平野でダレイオス3世の大軍を破った。王は戦場を捨てて逃げ、母と妻子が捕らえられる。イッソス(位置は特定されていない)

- ゴルディオンの結び目できごとBC333年力ずくで片づけることの譬え解いた者がアジアの王になる、という結び目を、剣で断ったと伝わる。端を抜いたという別の話もある。以後、力ずくで問題を片づけることの譬えになった。ゴルディオン

- ティルス攻囲できごとBC332年島の要塞を7か月かけて攻略。海に土手を築いて陸続きにした。ティルス
- アレクサンドリア建設できごとBC331年ナイル・デルタの西端に築かれ、後に地中海世界最大の学術都市になる。アレクサンドリア
- ガウガメラの戦いできごとBC331年10月1日ペルシアの主力を平原で破り、アケメネス朝の命運が決した。戦場の正確な位置は特定されていない。ガウガメラ(位置は特定されていない)

- シワの神託できごとBC331年神の子よエジプトを取ったあと、砂漠を8日行ってアモンの神殿へ。祭司が「神の子よ」と迎えた。何を聞いたかは誰にも言わなかった。母への手紙に「帰ったら話す」。帰らなかった。それから彼は自分をゼウス・アモンの子と呼び、ギリシア人はそれを笑い、恐れた。シワ
- アレクサンドロスのバビロン入城できごとBC331年10月8年後、同じ街で死んだガウガメラの3週間後、総督マザイオスが門を開けた。花が撒かれ、祭壇に香が焚かれた。マルドゥクに犠牲を捧げ、クセルクセスが壊した神殿の再建を命じた。ペルシアの征服者が、ペルシアの都で、バビロンの神の前に跪いた。8年後、同じ街で死んだ。バビロン
- ペルセポリス炎上できごとBC330年アケメネス朝の王宮が焼かれた。事故か報復かで古代から説が分かれる。ペルセポリス
- パルメニオンの暗殺できごとBC330年70歳の老将息子フィロタスが陰謀を密告しなかった罪で拷問され、殺された。王は父も生かしておけないと、エクバタナに使者を送って、70歳の老将を刺させた。フィリッポス以来の副官。以後、王に逆らう者はいなくなった。エクバタナ
- ダレイオス3世の死できごとBC330年マントをかけた逃げる大王を、部下のベッソスが縛って荷車に乗せ、追いつかれると刺して捨てた。アレクサンドロスは死体に自分のマントをかけ、ペルセポリスに王として葬らせた。ベッソスは翌年、鼻と耳を削がれて処刑された。ペルシア帝国は終わり、アレクサンドロスがその王になった。ダームガーン
- ベッソスの処刑できごとBC329年ペルシアの法で処刑させたダレイオスを殺して「アルタクセルクセス」を名乗った総督が、部下に縛られて裸で道端に置かれた。アレクサンドロスは鼻と耳を削いでエクバタナに送り、ペルシアの法で処刑させた。ダレイオスの仇を、ダレイオスの後継者として討った。マケドニア人は、王がペルシア人になっていくのを見た。バクトラ
- ベッソス人物? – BC329年アルタクセルクセス5世バクトリアの総督。ガウガメラで左翼を率いた。逃げるダレイオスを縛って、アレクサンドロスが近づくと槍で刺して置き去りにした。「アルタクセルクセス5世」。バクトリアで抵抗しようとして、部下スピタメネスに売られた。鼻と耳を削がれ、エクバタナで磔。
- クレイトスの殺害できごとBC328年槍で刺して三日泣いたグラニコスで王の命を救った将軍が、酒の席で「あなたの功はフィリッポスのおかげ」と言った。王は槍で刺した。それから三日、食べずに泣いた。マケドニア人の王か、ペルシアの大王か。その裂け目が、人を殺した。サマルカンド
- カリステネスの処刑できごとBC327年跪拝を拒んだアリストテレスの甥で、遠征の記録者だった。ペルシア式の跪拝を拒み、小姓たちの陰謀に連座させられて殺された。アリストテレスは王を許さなかったと伝わる。王を讃えて書いた歴史家が、王に殺された。バクトラ
- ヒュダスペス川の戦いできごとBC326年5月ここで兵が拒み、引き返す象部隊を擁するポロス王を破った。遠征の最東端で、ここから兵は帰還を求めて動かなくなる。ヒュダスペス川(位置は特定されていない)

- ヒュファシス川の兵の拒否できごとBC326年遠征の東端。兵が止めた8年歩いた兵が、これ以上東へ行かないと言った。王は3日天幕に籠もり、折れた。遠征の東端がここになる。帰りは砂漠を通り、兵の多くを失った。ヒュファシス川(ベアース川)(位置は特定されていない)
- スーサの集団結婚できごとBC324年二つの民を一つにする構想王とマケドニアの将校80人が、一日でペルシアの貴族の娘と結婚した。二つの民を一つにする構想だったが、王の死後、将校の多くは妻を捨てた。スーサ

- ヘファイスティオンの死できごとBC324年その8か月後に王自身が死ぬ王の最も近い友が、熱病で死んだ。王は数日食事を取らず、医者を磔にし、バビロンに巨大な葬儀の塔を命じた。その8か月後に王自身が死ぬ。エクバタナ
- アレクサンドロスの死できごとBC323年6月10日(11日説あり)バビロンで32歳で没した。後継者を定めなかったため、帝国は将軍たちの争いに入る。バビロン
- ディアドコイ戦争できごとBC322年王の血筋は10年で絶えた王が「最も強い者に」と言い残したとされ、将軍たちが40年争った。母も妻も子も殺された。イプソスで決着し、三つの王国が残る。バビロン
- ペルディッカスの死できごとBC321年鰐と流れ王の指輪を託された摂政が、王の遺体をプトレマイオスに奪われてエジプトを攻め、ナイルを渡ろうとして2000人を鰐と流れに失った。夜、部下のセレウコスとアンティゲネスが天幕で刺した。帝国を一つに保とうとした最後の男。それから40年、将軍たちは分け合った。ペルシウム
- ペルディッカス人物? – BC321年最も強い者に王の側近。テーバイの壁を最初に登った。ヘファイスティオンの死後、騎兵の長。バビロンで王の指輪を受け取った。「最も強い者に」の遺言を、自分のことと読んだ。異母兄フィリッポス3世と胎児アレクサンドロス4世の摂政。エジプトで部下に刺された。
- ポロス人物? – BC317年王としてパンジャーブの王。象200頭でヒュダスペスの岸を守り、負けて捕えられ、「どう扱われたいか」と問われて「王として」と答えた。アレクサンドロスは領土を返して広げた。アレクサンドロスの死後、マケドニアの総督に殺された。
- イプソスの戦いできごとBC301年後継者たちが分割を確定させたディアドコイ戦争の決着。帝国の再統一は潰え、セレウコス朝・プトレマイオス朝・マケドニアに分かれた。イプソス(位置は特定されていない)

- ミリンダ王の問いできごとBC150年頃兵の子孫の王インド・グリーク朝の王メナンドロスが、僧ナーガセーナに問うた。「自我はあるか」。「車は、輪か、軸か、車体か。どれでもない。名前だけ」。ギリシアの王とインドの僧の対話。パーリ語で残った。プルタルコスは王の遺骨を都市が分け合ったと書いた。サーガラ(シアールコート)

- グレコ・バクトリア王国の滅亡できごとBC130年頃200年のギリシアアレクサンドロスの兵の子孫の国が、200年、アフガニスタンにあった。ギリシア語の硬貨、ギリシアの神殿、アイ・ハヌムの劇場。月氏が匈奴に追われて来て、終わった。張騫が来たとき、もうなかった。「大夏」と彼は書いた。バクトラ
重なっているストーリー
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帝国と独立2件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。考えることの歴史2件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。ペルシア戦争2件を共有 / 当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。