竹林の七賢

概要
司馬氏が魏を乗っ取る政争の時代に、七人の名士が竹林で酒を飲み、琴を弾き、礼教を嘲った。嵆康は処刑され、阮籍は酔って逃げた。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(2)
何晏AD195年–AD249年 · その前に正始の音王弼AD226年–AD249年 · その前に正始の音本文
3世紀の半ば、魏の朝廷では、曹操の子孫の皇帝を差し置いて、司馬氏が権力を握りつつあった。249年、司馬懿は皇帝の墓参りの隙を突いて政変を起こし、実権を握っていた曹爽とその一派を殺した。そのなかに、何晏がいた。
何晏は、若い王弼とともに、『老子』や『易』を論じて、万物の根本にある「無」を説いた人だった。正始の年号の頃に花開いたこの新しい哲学は「正始の音」と呼ばれ、のちに玄学と呼ばれる流れの出発点になる。だが何晏は政変で殺され、王弼も同じ年に23歳で病死した。哲学を語ることと、政治の争いに巻き込まれることが、すぐ隣り合わせにあった。
その後の時代に、七人の名士が竹林に集まって酒を飲み、琴を弾き、語り合ったと伝えられる。阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎。のちに竹林の七賢と呼ばれる人々になる。集まった場所は、嵆康が住んでいた河内の山陽(いまの河南省)の竹林とされる。
彼らが好んだのは、『老子』『荘子』(『老子』の成立、『荘子』)や『易』をめぐる、世俗を離れた議論だった。清談と呼ばれる。儒教の礼の形式に縛られず、心のままに生きることを尊んだ。
礼教を嘲るような振る舞いが、数多く伝わっている。阮籍は母の葬儀の最中に酒を飲み肉を食べ、喪に服す者の作法を無視した。だが葬りの場で一声泣いて、血を吐いたともいう。形の上の礼より、心の悲しみのほうが本物だという態度だった。気に入らない客には白い目を向け、気の合う相手が酒と琴を持って来ると黒い瞳で迎えた。「白眼視」という言葉はここから来ている。
劉伶は酒を好み、家で裸になっていた。それを咎めた客に、自分は天地を家とし、部屋を褌(ふんどし)としている、あなたたちはなぜ私の褌の中に入ってくるのか、と言い返した。鍬を担いだ召使いを連れ歩き、自分が死んだらその場で埋めよ、と言っていたとも伝わる。こうした逸話の多くは、5世紀に編まれた『世説新語』に収められている。
だが、それは逃げ道でもあった。政治を語れば殺される時代だった。阮籍は、司馬昭が息子と阮籍の娘との縁組を申し入れてきたとき、60日間酔い続けて、話を切り出させなかったという。酒に溺れ、何を言っているのか分からない人であることが、身を守る手段になった。阮籍は最後には、司馬昭に帝位への道を勧める文章を書かされている。
嵆康は、それをしなかった。妻は曹操の一族の娘で、魏の皇室とつながっていた。仲間の山濤が司馬氏の政権で官に推薦しようとすると、嵆康は長い手紙を書いて絶交を宣言し、自分は役人に向かない理由を並べた。司馬氏の側の鍾会が訪ねてきたときには、鍛冶の手を止めずに相手にしなかった。

262年ごろ、嵆康は、無実の罪に問われた友人の呂安を弁護して、自分も捕らえられた。鍾会が司馬昭に、嵆康は危険な人物だと説いたとされる。太学の学生3000人が嵆康の助命を願い出たが、聞き入れられなかった。刑場で嵆康は日の影を見て時を知り、琴を求めて「広陵散」という曲を弾いた。弾き終えると、この曲は今日で絶える、と言って刑を受けたと伝わる。
七人の行く末は分かれた。山濤と王戎は、司馬氏に仕えて高官になった。山濤は、絶交したはずの嵆康の遺児を引き立てて官に就け、嵆康も死の前に、山濤がいればお前は孤児にはならない、と子に言い残したという。王戎は大臣になったが、ひどい吝嗇で知られ、自家の庭のすももの良い品種が人に伝わらないよう、種に穴を開けてから売ったと笑い話に残る。向秀は嵆康の死後、旧居の前を通ったときの悲しみを詩に書き、心ならずも官に就いた。

265年、司馬炎が魏の帝位を奪って晋を建てる(司馬炎の晋建国)。竹林の七賢という呼び名と、七人がそろって竹林に遊んだという話は、のちの時代に形作られたもので、本当に七人が一緒に集まったのかを疑う研究者もいる。それでも、権力から距離を置き、酒と詩と琴に生きた隠者の像として、七賢は後世の文人の理想になった。東晋の蘭亭序の宴も、陶淵明「帰去来の辞」の隠棲も、その流れの先にある。