バスケットボールの考案
概要
マサチューセッツのYMCA訓練校で、体育の教師ジェームズ・ネイスミスが、上司から2週間の宿題を出された。冬の間、屋内でできる、退屈しない運動を考えよ。彼は既存の競技を分解して、けがの原因は走りながらの接触だと考えた。だからボールを持って走ることを禁じ、得点する的を頭より高い水平の位置に置いた(上から落とすので、強く投げても意味がない)。桃を入れる籠を手すりに釘で打ちつけた。13条の規則を紙に書いて壁に貼った。最初の試合の得点は1対0だった。
場所
42.10°N -72.59°E · アメリカ・マサチューセッツ州
関わった人(1)
ジェームズ・ネイスミスAD1861年11月6日–AD1939年11月28日 · 考えた本文
1891年の冬、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCA訓練校(いまのスプリングフィールド大学)は、一つの悩みを抱えていた。ここはYMCAの各地の支部で働く体育指導者を育てる学校である。ところがニューイングランドの冬は長く、11月から3月までは屋外で運動ができない。学生たちは屋内の体育館で、器械体操や行進や簡単な体操ばかりさせられていた。退屈である。とくに荒れていた一つのクラスは「手に負えない連中」と呼ばれ、続けて二人の教師が音を上げたと伝えられる。
体育部長のルーサー・ハルゼー・ギューリックは、教員のジェームズ・ネイスミスに課題を出した。屋内でできて、面白く、けがをしない競技を考えよ。期限は2週間である。ネイスミスはカナダのオンタリオ州の生まれで、このとき30歳だった。その少し前の会合でギューリックが「新しい競技を発明することはできる」と論じ、ネイスミスが「それは簡単ではない」と言い返したので、では君がやってみろということになった、という経緯も伝わっている。

ネイスミスは、まず既存の競技を屋内へ持ち込んでみた。サッカーは窓を割った。ラクロスは狭い場所でスティックの殴り合いになった。アメリカン・フットボールは硬い床の上のタックルでけが人を出した。どれも失敗だった。彼はそこで諦めず、競技を分解して考えることにした。
けがはなぜ起きるのか。選手がボールを持って走るからだ、と彼は考えた。走ってくる相手を止めるには、体ごとぶつかるしかない。それならボールを持って走ることを禁じればよい。受け取った場所からは動かず、パスするか、その場で投げる。ドリブルは最初の規則には無く、動けない選手が床にボールをついて自分で拾い直すという抜け道として生まれ、のちに正式に認められた。

乱暴になるのはなぜか。ゴールが垂直の面にあるからだ。サッカーのように縦の枠へ投げ込むなら、強く速く投げるほど有利になる。そこで彼はゴールを水平に置き、上から落とし込む形にした。
これなら力任せに投げても意味がなく、正確さと柔らかい手つきが勝負を決める。さらにゴールを頭より高いところに置けば、選手がゴールの前に立ちはだかって体で守ることもできない。ボールは両手で扱える大きなものにした。小さなボールはスティックやバットのような道具を必要とし、道具は凶器になるからである。最初はサッカーボールを使った。

山なりに投げるという発想には、子どもの頃の遊びが生きていた。「岩の上の鴨」と呼ばれる遊びで、大きな石の上に小石を載せ、離れたところから石を投げて落とす。強く投げると外れて遠くへ転がり、拾いに行く間に不利になる。だから、ふわりと山なりに投げる者が勝つ。ネイスミスは、この構造をそのまま新しい競技に移した。
ゴールの道具は、ありあわせだった。ネイスミスは用務員のジェームズ・ステビンズに、箱を二つ持ってきてくれと頼んだ。箱は無く、代わりに桃を入れる籠が二つあった。それを体育館の上に張り出したランニングトラックの手すりに、釘で打ちつけた。手すりの高さは10フィート、およそ3.05メートルである。たまたまその高さだった手すりが、いまに至るまでのゴールの高さになった。

規則は13条にまとめられ、紙に書いて体育館の掲示板に貼られた。ボールは片手でも両手でも、どの方向へ投げても打ってもよいが、拳で殴ってはならない。ボールを持って走ってはならない。腕や体で抱え込んではならない。
相手を肩で押す、つかむ、押す、つまずかせる、打つことは反則で、同じ側が続けて三度反則をすると相手の得点になる。外へ出たボールは最初に触れた者が投げ入れる。試合は15分ずつの前後半で、間に5分の休みを置く。得点の多い側が勝つ。

最初の試合は1891年12月21日に行われたとされる(日付には異説がある)。クラスの18人を9人ずつに分けての対戦だった。結果は1対0で、ただ一つの得点は、ウィリアム・チェイスが25フィートほど離れたところから投げ入れたものだったと伝えられる。困ったのは、桃の籠に底があったことだ。点が入るたびに誰かが梯子に登ってボールを取り出さねばならなかった。やがて籠の底に穴を開けて棒で突き出すようになり、底の無い網になるのは20世紀に入ってからである。
規則は、遊ばれながら形を変えていった。体育館の上のトラックに陣取った観客が、手を伸ばして相手の投げたボールをはたき落とすことがあったので、籠の後ろに板を立てるようになった。これがバックボードの始まりで、やがて板に当てて入れる打ち方そのものが技術になった。人数も最初は決まっておらず、体育館の広さに応じて何人でも出たが、混雑を避けるため、1890年代の終わりには一チーム5人がふつうになった。籠に入れれば1点だった得点も、のちに2点と1点の区別が付けられた。

この競技は驚くほど速く広がった。理由はYMCAの網である。当時のYMCAは世界中に支部を持ち、訓練校の卒業生たちは各地へ赴任して、そこで新しい競技を教えた。1892年には規則が学内誌に載って全米のYMCAに配られ、翌年にはフランスへ、1895年には中国の天津へ伝わった。
日本へは1908年、訓練校で学んだ大森兵蔵が東京のYMCAで紹介したのが始まりとされる。1904年のセントルイス五輪では公開競技として行われ、1936年のベルリン・オリンピックで正式競技になった。ネイスミスは観戦に招かれ、その旅費は全米のバスケットボール関係者の募金で賄われた。
女子の競技も、ほとんど同時に始まった。1892年、近くのノーサンプトンにあるスミス大学の体育教師センダ・ベレンソンが、女子のための規則を作った。コートを三つに分け、選手はそれぞれの区域から出られない。女性が激しく動くことを医学的にも道徳的にも危ぶむ考えが強かった時代の工夫で、この形式は一部で1970年代まで残った。
ネイスミス自身は、この競技で一銭も稼がなかった。特許も商標も取っていない。1898年にカンザス大学へ移り、体育部長として働くかたわら、同大学の初代のバスケットボール監督を務めた。通算成績は55勝60敗で、カンザス大学の歴代監督の中でただ一人の負け越しである。その後、教え子のフォッグ・アレンがカンザスを強豪に育て、アレンのもとからは、のちにノースカロライナ大学でマイケル・ジョーダンを指導するディーン・スミスや、ケンタッキー大学の名監督アドルフ・ラップが出た。考案者から始まる師弟の系譜が、そのまま競技の歴史になっている。
ネイスミスは医師の資格を持ち、長老派の牧師でもあった。彼が本当に大事にしていたのは勝ち負けではなく、体を動かすことを通じて人格を育てることだった。競技が商業化し、勝つことばかりが求められていく様子には複雑な思いを抱いていたと伝えられる。1939年11月28日、脳出血のため78歳で死んだ。
彼が1891年にタイプした13条の規則の原本は、長く家族の手元にあった。2010年にサザビーズの競売に出され、430万ドルで落札された。落とした夫妻はカンザス大学の卒業生で、原本を母校に寄贈し、いまは大学の施設に展示されている。国際バスケットボール連盟は、世界の競技人口を4億5000万人以上と見積もっている。そしてゴールの高さは、1891年の体育館の手すりと同じ10フィートのままである。