概要
ロンドンの弁護士の子。3歳でラテン語、12歳でオックスフォード。法律を学んで、法律を憎んだ。「自然権は戯言、生まれながらの権利は竹馬に乗った戯言」。功利。「最大多数の最大幸福」。快楽計算。『道徳と立法の原理序説』(1789年)。監獄、救貧法、選挙法、法典、動物の権利(「彼らは苦しめるか」)、同性愛の非犯罪化(未刊)、ロンドン大学。ミル父子、急進派。遺体を解剖して、骨格に服を着せて「オート・アイコン」にし、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに座っている。
関わったできごと(1)
ベンサムのパノプティコンAD1791年 · 設計した本文
1748年2月15日、ロンドン、ハウンズディッチ。父ジェレマイアは弁護士(事務弁護士)で不動産で富み、息子を天才にするつもりだった。3歳で英語の歴史を読み、4歳でラテン語、7歳でフランス語。ヴァイオリン。ウェストミンスター・スクール、オックスフォードのクイーンズ(12歳で入学。16歳で学士。「オックスフォードで学んだのは、偽誓(三十九か条への宣誓)だけだ」)。リンカーンズ・インで法律。1769年、法廷弁護士。訴訟をほとんどやらなかった。「法律を学べば学ぶほど、法律を憎んだ」。父の金で暮らして、書いた。
1769年、「幸福を測る」。ヒュームとエルヴェシウスとベッカリーア(『犯罪と刑罰』)とプリーストリー(「最大多数の最大幸福」という言葉を見つけた)。1776年、『統治論断片』(匿名。ブラックストーンの『イングランド法釈義』の批判。「最大多数の最大幸福が、正と不正の尺度である」)。シェルバーン卿(後のランズダウン侯、首相)が読んで、招いた。ボウッド・ハウス。1785〜87年、ロシア(弟サミュエル)。『高利弁護論』(1787年。アダム・スミスの利子制限に反対して。スミスは黙って認めた、と伝える)。パノプティコン。
1789年、『道徳および立法の諸原理序説』(1780年に印刷して、9年、出さなかった)。第1章「自然は人類を、苦痛と快楽という、二人の主権者の支配の下に置いた」。功利の原理。「共同体の利益とは、それを構成する個々の成員の利益の総和である」。快楽計算(強さ、持続、確実さ、近さ、多産性、純粋性、範囲)。「快楽の量が等しければ、プッシュピン(子供の遊び)は詩と同じくらい良い」(1825年)。刑罰は「それ自体が悪」で、より大きな悪を防ぐときだけ正当。動物。「問題は、彼らが理性を持つかでも、話せるかでもない。彼らは苦しむことができるか、である」(注)。
『無政府主義的誤謬』(1796年、フランスの人権宣言を1条ずつ。「自然権は単なる戯言。自然かつ絶対的な権利は、修辞的な戯言、竹馬に乗った戯言(nonsense upon stilts)」)。フランス革命政府は1792年、彼を名誉市民にした。彼はパノプティコンをフランスに提案した。
1808年、ジェイムズ・ミルに会った。ミルが弟子で、宣伝者で、組織者になった。「哲学的急進派」。ジェイムズの息子ジョン・スチュアート・ミル(ベンサムの家で夏を過ごし、『司法証拠の原理』を編集し、後に『ベンサム論』(1838年)で「彼は人間の本性の半分しか知らなかった」)。1809年頃から、議会改革。1817年、『議会改革の教理問答』。男子普通選挙、秘密投票、毎年選挙(チャーティストの6か条の元)。1820年代、『憲法典』(未完。「全能の立法部」、官僚の試験による任用、公開、新聞の自由、君主制と貴族制と国教会の廃止)。1824年、『ウェストミンスター・レヴュー』。1826年、ロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン。宗教を問わず、安く。「神なき学校」。彼が創設者だとされるが、直接には関わらなかった。株を買った)。
書き続けた。1日10〜20ページ。7万ページの草稿(ユニヴァーシティ・カレッジに。『ベンサム著作集』のプロジェクトが1968年から続いていて、まだ終わっていない。2020年代に40巻を超えた)。新語。「国際的(international)」「法典化(codify)」「最大化(maximize)」「最小化(minimize)」。
クイーンズ・スクエア・プレイス(ウェストミンスター)の家(「隠者の庵」)。杖の名は「ダップル」、猫の名は「牧師ジョン・ラングボーン師」。若い秘書たち(バウリング、チャドウィック、エドウィン)。
1832年6月6日、選挙法改正法の成立の前日、死んだ。84歳。遺言。体を解剖せよ(サウスウッド・スミス博士が、解剖学校で、講義した。雷雨の中で)。骨格に自分の服を着せて、頭をミイラにして、箱に入れて、弟子が集まるときは、部屋に置け。「オート・アイコン」。頭のミイラは失敗して(顔が縮んだ)、蝋の頭に。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの南回廊の木の箱の中に、座っている(2020年から学生センターのガラスの箱)。頭は学生に盗まれたことがあって(1975年、キングズ・カレッジの学生が100ポンドの身代金を慈善に)、いまは金庫に。
「彼は、自分の骸骨に、1000年、影響を与えたかった」。