人物

クロード・レヴィ=ストロース

Claude Lévi-Strauss
AD1908年11月28日 – AD2009年10月30日(享年100)
フランス重要度 5

概要

ブリュッセルのユダヤ系フランス人の家。哲学の教授資格。1935年、サンパウロ大学へ。マト・グロッソとアマゾンで、カデュヴェオ、ボロロ、ナンビクワラを調査した。戦争でニューヨークへ亡命し、そこで言語学者ヤコブソンに会って、音韻論の方法を人類学へ移した。『親族の基本構造』『悲しき熱帯』『野生の思考』『神話論理』4巻。アカデミー・フランセーズ。100歳を超えて生きた。

関わったできごと(1)

レヴィ=ストロース『親族の基本構造』AD1949年 · 書いた

本文

クロード・レヴィ=ストロースは、1908年11月28日、ブリュッセルに生まれた。父レーモンはフランスの肖像画家で、たまたま仕事でベルギーに滞在していた。一家はまもなくパリに戻り、彼はパリで育った。父方はアルザスのユダヤ系の家で、曽祖父は作曲家オッフェンバックと共演したヴァイオリニストだった。母方の祖父はヴェルサイユのユダヤ教の教師(ラビ)である。家は芸術に囲まれていたが、裕福ではなかった。

クロード・レヴィ=ストロースの肖像
クロード・レヴィ=ストロースの肖像Wikimedia Commons UNESCO/Michel Ravassard · CC BY 3.0

パリ大学で法学と哲学を学び、1931年、哲学の教授資格試験に合格した。同じ世代には、のちに名を成すボーヴォワールやメルロー=ポンティがいた。地方の高校で哲学を教えたが、彼は哲学の授業に飽きていた。同じ三つか四つの問題を、言い方と並べ方を変えて繰り返す知的な体操のように思えた、と後年書いている。代わりに惹かれたのが、アメリカの人類学者の民族誌だった。

1934年の秋のある日曜日、恩師から電話がかかってきた。ブラジルのサンパウロ大学で社会学の教師を探している、行く気はないか。彼は引き受け、1935年に海を渡った。大学の休暇を使い、内陸のマト・グロッソへ調査に出た。パラグアイに近い地で、顔に精緻な模様を描くカデュヴェオの人々を訪ね、続いて、村の家々が円形に並ぶボロロの人々のもとに暮らした。1938年には大がかりな探検隊を組み、半年以上かけて奥地へ入り、裸で暮らし、ごくわずかな持ち物しか持たないナンビクワラの人々と、まだ外の世界とほとんど接していなかったトゥピ=カワイブの人々に会った。

1939年に帰国すると、第二次世界大戦が始まって召集された。1940年、フランスが敗れ、成立したヴィシー政権が反ユダヤの法律を作ると、ユダヤ系の彼は教職を追われた。1941年、アメリカのロックフェラー財団による亡命学者の救出計画に救われ、マルセイユから難民を満載した貨物船でマルティニーク経由でニューヨークへ渡った。同じ船には詩人アンドレ・ブルトンも乗っていた。フランスに残った親族の中には、のちに強制収容所で命を落とした者もいた(ホロコースト)。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

ニューヨークで、亡命知識人の作った学校で教えながら、同じく亡命者だったロシア生まれの言語学者ロマーン・ヤコブソンに出会った。ヤコブソンは、言語の音を一つずつ見るのでなく、音と音のあいだの「違い」の組み合わせとして捉える音韻論を講じていた。それぞれの音は、ほかの音とどう違うかによってしか意味を持たない。レヴィ=ストロースは、この考え方が、親族や神話のような人間の営みにもそのまま使えると直感した。彼はニューヨーク公共図書館で北米先住民の膨大な記録を読み、戦後の1945年から2年ほどは在米フランス大使館の文化参事官を務めた。

帰国後の1949年、レヴィ=ストロース『親族の基本構造』を出した。世界各地の結婚の規則、たとえばいとこのうち、ある側とは結婚してよく、別の側とは結婚してはならない、という一見ばらばらの決まりを、集団と集団が女性を贈り合う交換の体系として読み解いた。近親婚の禁止は、自分の集団の女性を他の集団に与えさせ、人と人の結びつきを広げるための、自然から文化への最初の一歩だとした。

クロード・レヴィ=ストロースの肖像
クロード・レヴィ=ストロースの肖像Wikimedia Commons UNESCO/Michel Ravassard · CC BY 3.0

1955年の『悲しき熱帯』で、彼は広く一般の読者に知られた。ブラジルの日々を振り返るこの本は、「私は旅や探検家が嫌いだ」という一文で始まる。異国の珍しさを売る旅行記を拒みながら、失われつつある人々の暮らしと、それを壊してきた西洋への苦い思いを綴った。文学の賞の審査員たちが、小説でないので賞を与えられないのが残念だと表明したほどだった。本の終わり近くには、世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう、という一節がある。

1958年の『構造人類学』で方法をまとめ、翌1959年、コレージュ・ド・フランスの社会人類学の教授になった。1962年の『野生の思考』では、文字を持たない人々の思考が、近代の科学より劣ったものではなく、身の回りの具体的な物を素材に分類し組み合わせる、別の種類の厳密な思考であることを論じた。手持ちの材料をあり合わせで組み立てる「ブリコラージュ(器用仕事)」という言葉は、ここから広まった。同じ本の最終章で、歴史の進歩を軸に人間を語るサルトルを批判し、これをきっかけに、1960年代のフランスでは、言語や無意識の構造から人間を捉える「構造主義」が思想の主流になっていった。

1964年から1971年にかけては、『神話論理』4巻で、南北アメリカの800を超える神話を互いの変形として読み解いた。生のものと火を通したもの、蜜と灰、といった対立の組み合わせが、大陸を越えて神話から神話へと形を変えて受け継がれていく様子を追った大作である。1973年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。

彼の仕事は、どの社会の人間の精神も同じように働く、違うのは素材と組み合わせ方だけだ、という確信に貫かれていた。1952年、ユネスコの設立の依頼で書いた『人種と歴史』では、文化に優劣はなく、文明の発展は、異なる文化が孤立せず互いに交わることから生まれる、と論じた。ところが1971年、同じユネスコで行った講演『人種と文化』では、文化がそれぞれの個性を保つには、互いのあいだにある程度の距離と、他への無関心さえ必要だ、と述べた。混ざり合いすぎれば多様性そのものが失われる、という警告は、主催者を困惑させた。

彼は日本の文化を愛した。1977年に初めて来日し、その後も繰り返し訪れて、職人の仕事場や地方の祭りを見て歩いた。日本人は素材の側から考える、と評し、日本の神話や工芸について文章を残している。

2008年、100歳の誕生日には、フランスの大統領が自宅を訪れて祝った。同じ年、フランスの古典を収めるプレイヤード叢書に、生きているうちに自著が加えられた。2009年10月30日、パリで死んだ。101歳の誕生日のひと月前だった。人類学を、遠い土地の珍しい習俗の記録から、人間の精神の普遍的な仕組みを探る学問へと変えた人だった。

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