← 地図で見る
Event / できごと

長征

Long March
AD1934年10月16日
重要度 5

概要

蒋介石の第5次囲剿で江西の根拠地を失って、紅軍8万6000が瑞金を出た。1年、1万2500キロ。湘江で半分を失い、遵義会議で毛沢東が指導権を取り、金沙江、瀘定橋(鎖の橋を13人が渡った、と伝える)、大雪山、草地(沼)。1935年10月、陝西の呉起鎮に着いたのは8000人。負けて逃げた話が、党の神話になった。

場所

瑞金
25.89°N 116.03°E · 中国・江西省

関わった人(2)

毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 遵義で指導権を周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 同行

本文

1931年、江西の瑞金に中華ソヴィエト共和国。毛沢東が主席。1933年、上海の党中央(ソ連帰りの博古、ドイツ人のオットー・ブラウン=李徳)が瑞金に移って、毛沢東の遊撃戦を「逃亡主義」と言って外し、陣地戦をした。蒋介石の第5次囲剿。100万の軍、トーチカを作りながら前進する(ドイツの顧問ゼークトの案)。1934年4月、広昌で紅軍が大敗した。

10月10日、出発を決めた。10月16日、于都河を渡った。中央紅軍8万6000(うち女性30人。毛沢東の妻賀子珍、周恩来の妻鄧穎超)。荷物を全部持って(印刷機、造幣機、X線装置)。「移動する国家」。瞿秋白、陳毅、毛沢覃(毛の弟)らが残されて、瞿秋白と毛沢覃は殺された。

11月末、湘江。蒋介石の軍が待っていた。5日。8万6000が3万に。12月、貴州へ。1935年1月15〜17日、遵義会議。博古と李徳が責任を問われ、毛沢東が政治局常務委員に、軍事の指揮に。周恩来が支持した(王稼祥、張聞天も)。「毛沢東の指導の確立」と党史は言う。

1〜3月、四渡赤水(赤水河を4回渡って蒋介石の軍を翻弄した)。5月、金沙江(雲南、7日7夜で渡った)。5月、大渡河。安順場で船が足りず、瀘定橋へ。5月29日、瀘定橋。13本の鎖で吊った橋の板を、対岸の軍が外していた。22人が鎖を伝って渡った、と伝える(対岸の軍は少なく、逃げた、と言う人もいる)。6月、夾金山(4000メートル。夏服で。凍死者)。6月、四川で張国燾の第四方面軍(8万)と合流した。張国燾は毛より兵が多く、南へ行くと言い、毛は北へ。割れた。8〜9月、草地(松潘の沼。7日。沈む。食べる物がない)。9月、臘子口。10月19日、陝西北部の呉起鎮。8000人。1年と3日。1万2500キロ(党の数字。実測は6000〜9000キロと言う人もいる)。

1936年10月、第二方面軍(賀龍)と第四方面軍が甘粛で合流して、終わった。全部で、出発時30万から、3万。

延安(1937年1月から)。スノー『中国の赤い星』(1937年)。

「長征は宣言書であり、宣伝隊であり、播種機である」(毛沢東、1935年12月)。負けて逃げた1年が、党の英雄譚になった。習近平は2016年、「新しい長征」と言った。

同じ時代のできごと

マルヌの戦いAD1914年9月6日第一次世界大戦1914年一般相対性理論AD1915年11月25日袁世凱の帝制AD1915年12月12日『変身』AD1915年ガリポリの戦い1915年バスマチ蜂起1916年サイクス・ピコ協定AD1916年5月16日