長征
概要
蒋介石の第5次囲剿で江西の根拠地を失って、紅軍8万6000が瑞金を出た。1年、1万2500キロ。湘江で半分を失い、遵義会議で毛沢東が指導権を取り、金沙江、瀘定橋(13本の鉄の鎖の橋を22人が渡った、と伝える)、大雪山、草地(沼)。1935年10月、陝西の呉起鎮に着いたのは8000人。負けて逃げた話が、党の神話になった。
場所
25.89°N 116.03°E · 中国・江西省
関わった人(2)
毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 遵義で指導権を周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 同行本文
1927年、中国国民党の蒋介石は、それまで手を組んでいた共産党を上海で弾圧し、共産党員と労働者を大勢殺した。都市で動けなくなった共産党は、山深い農村に逃れて根拠地を作った。なかでも大きかったのが、江西省南部の山地に毛沢東と朱徳が築いた根拠地である。1931年、共産党は江西の瑞金を首都として「中華ソヴィエト共和国」の樹立を宣言し、毛沢東がその主席になった。毛沢東の軍は、敵を根拠地の奥深くに誘い込み、補給の伸びたところを叩く遊撃のやり方で、蒋介石が送り込んだ包囲討伐の軍を何度も退けた。
だが党の中で、毛沢東の立場は強くなかった。1933年、上海にいた党の中央の幹部たちが瑞金に移ってきた。ソ連で学んだ若い指導者の博古と、コミンテルンから派遣されたドイツ人の軍事顧問オットー・ブラウン(中国名は李徳)らである。彼らは毛沢東の遊撃戦を逃げ腰だと批判し、毛を軍の指揮から外して、正面から陣地を守って戦うやり方を取った。

同じころ、蒋介石は5度目の包囲討伐に取りかかっていた。今度は、ドイツから招いた軍事顧問たちの助言を入れ、トーチカを築きながら少しずつ包囲の輪を縮めるやり方をとった。動員した兵は数十万、一説に100万にのぼる。根拠地は道を封じられて塩や薬が尽き、陣地を正面から守ろうとした紅軍(共産党の軍)は、1934年4月の広昌の戦いで大きな損害を出した。根拠地を捨てるしかなくなった。
1934年10月、紅軍の主力は根拠地を出た。10月16日ごろから、于都河を渡って西へ向かった兵はおよそ8万6000人。そのなかには女性が30人ほどいて、周恩来の妻の鄧穎超や毛沢東の妻の賀子珍もいた。行き先は決まっておらず、最初は西の湖南にいる別の紅軍と合流するつもりだった。一行は印刷機や造幣の機械、文書まで担いで運び、行軍の歩みは遅かった。根拠地には、病で動けない者や、指導部から外された幹部たちが残された。そのうち、党の元指導者瞿秋白は翌年捕らえられて処刑され、毛沢東の弟の毛沢覃は戦死した。
蒋介石は、紅軍の行く手に何重もの封鎖線を敷いていた。1934年11月の末、広西との境を流れる湘江を渡るとき、紅軍は待ち構えていた国民党の軍に挟まれ、数日のあいだに大損害を受けた。湘江を渡り終えたとき、兵は3万あまりに減っていたとされる。紅軍は湖南の別の紅軍との合流をあきらめ、敵の手薄な西の貴州へ向きを変えた。
1935年1月、貴州の町遵義で、党の政治局の拡大会議が開かれた。湘江の大敗の責任が問われ、博古とブラウンの軍事指導は誤りだったとされた。毛沢東は党の最高指導部である政治局常務委員に加わり、軍の指揮に戻った。それまで博古らの側にいた周恩来や、張聞天、王稼祥がこれを支えた。共産党の公式の歴史は、この遵義会議を、党の中で毛沢東の指導が確立した転換点として描いている。ただ、毛沢東が党の頂点に立つのはもっと後のことで、このときは指導部の一員に戻ったという面が強い。

それからの紅軍は、敵の大軍を避けて動き回った。貴州の赤水河を4度にわたって行き来して国民党の軍をかく乱し、5月には雲南から四川へ、長江の上流の金沙江を、わずかな船を使って数日かけて渡り切った。続いて四川の西部を流れる大渡河に行き当たった。急流で、渡し場の船は足りなかった。紅軍は川沿いを上流へ急ぎ、瀘定という町にかかる吊り橋を目指した。13本の鉄の鎖を対岸へ渡し、その上に板を敷いた橋で、守る側の軍は板の多くを外していた。1935年5月29日、選ばれた22人の兵士が、銃火のなか鉄の鎖を伝って対岸に渡り、橋を奪ったと伝えられる。この場面は長征で最も有名な英雄譚になったが、対岸の守備兵は少なく、激しい戦いではなかったとする証言や研究もある。
6月、紅軍は標高4000メートルを超える夾金山の雪の峠を越えた。南の暑い土地から来た兵士たちは夏の薄い服のままで、寒さと薄い空気のために多くが倒れた。峠を下りた先で、四川にいた張国燾の率いる別の紅軍と合流した。張国燾の軍は8万を数え、毛沢東たちよりはるかに多かった。どちらが主導権を握るか、どこへ向かうかをめぐって両者は対立し、やがて軍は分かれた。毛沢東たちは北へ、張国燾は南へ進んだ。

8月、毛沢東たちは、四川と甘粛の境に広がる大湿原、草地に入った。ぬかるみに足を取られれば沈み、水は飲めず、食べるものも無かった。兵士たちは革のベルトや草の根を煮て食べた。数日かけて湿原を抜けると、9月には甘粛の要害の臘子口の関門を破った。そして1935年10月、陝西省北部の呉起鎮に着き、そこで活動していた現地の紅軍と合流した。瑞金を出てから1年。たどり着いたのは、7000人とも8000人ともいわれる人々だった。
共産党は、この行軍の道のりを2万5000里、1万2500キロとしている。のちにその道筋を実際に歩き直した人々からは、それより短かったという指摘も出ている。いずれにせよ、追われ、戦い、山を越え、湿原を渡った1年の旅で、出発した兵の9割近くが死ぬか、脱落するか、途中で別れた。翌1936年の秋、南に分かれた張国燾の軍や、湖南から出た賀龍の軍も甘粛にたどり着き、紅軍の主な部隊がようやく北で一つになった。
陝西北部の貧しい黄土の大地に移った共産党は、1936年の西安事件をきっかけに、日本と戦うために国民党と再び手を結ぶことになる。1937年からは延安を拠点にし(延安整風)、日中戦争(日中戦争)のあいだに勢力を大きく広げた。同じ年、延安を訪ねたアメリカの記者エドガー・スノーは『中国の赤い星』を書き、長征の物語を世界に伝えた。

毛沢東は長征を、宣言書であり、宣伝隊であり、種をまく機械である、と言った。敗れて根拠地を追われた退却の旅が、困難に打ち勝った英雄の物語として語り直され、共産党の正統性を支える神話になった。長征を共にした人々は、1949年の中華人民共和国の成立のあと、長く国の指導者の座を占めた。中国の指導者たちは、いまも困難な目標を掲げるとき、「新しい長征」という言葉を使う。