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Person / 人

ゴットフリート・ライプニッツ

Gottfried Wilhelm Leibniz
AD1646年7月1日 – AD1716年11月14日(享年70)
神聖ローマ帝国重要度 5

概要

ライプツィヒの大学教授の子。父の蔵書を独学で読み尽くした。20歳で法学博士。生涯、ハノーファー侯家の顧問・図書館長・史料編纂官として仕えた。微積分を独自に発見し、いま使われる記号(dxと積分記号)は彼のもの。ニュートンとの先取権争いで晩年を消耗した。二進法、計算機、記号論理、単子論、「可能な世界のうち最善」。哲学、数学、法学、外交、鉱山技術。葬儀に参列したのは秘書一人だったと伝わる。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(1)

ライプニッツの二進法AD1703年 · 書いた

本文

1646年7月1日、ライプツィヒ。父フリードリヒはライプツィヒ大学の道徳哲学の教授。母カタリーナは法律家の娘。

6歳で父が死んだ。父の**蔵書**が残った。

8歳のとき、彼は書斎に入る許可を求めた。周囲は反対したが、大学の関係者が「才能を伸ばすべきだ」と言って通した。

彼はラテン語を独学で覚え、12歳でラテン語の詩を書き、ギリシア語に進んだ。スコラ哲学の書物を、片端から読んだ。

14歳でライプツィヒ大学。20歳で法学博士の論文を書き上げた。しかし、大学は「若すぎる」として学位を出さなかった。彼はニュルンベルクのアルトドルフ大学に移り、そこで学位を得た(1667年)。大学は彼に教授職を提示した。彼は断った。

**職業**。彼は生涯、**大学に属さなかった**。

マインツ選帝侯の法律顧問(1667年〜)。そして1676年から死ぬまで、**ハノーファー侯家**の宮廷顧問、図書館長、そして史料編纂官。

最後の仕事——ヴェルフ家(ハノーファー侯家)の系譜の編纂——は、彼の晩年30年を蝕んだ。彼は文書を求めてドイツ、オーストリア、イタリアを旅し、膨大な資料を集め、そして完成させなかった。雇い主は苛立ち続けた。

**パリ**(1672〜1676)。

外交の任務で派遣された。表向きの目的は、ルイ14世をドイツから逸らすためエジプト遠征を勧めること(実現しなかった)。

しかし、この4年が、彼の生涯を決めた。

**ホイヘンス**に会い、当時の最先端の数学を教わった。26歳まで、彼はまともな数学教育を受けていなかった。

そして、**微積分**に到達した(1675年)。

1675年10月29日のノートに、彼は初めて **∫** の記号を書いた(ラテン語 summa の s を引き伸ばしたもの)。11月11日、**dx** の記法。

この記号は、いま我々が使っているものである。

**ニュートンとの争い**。

ニュートンは1665〜66年に「流率法」に到達していたが、発表していなかった。

ライプニッツは1684年に微分を、1686年に積分を、学術誌『アクタ・エルディトルム』に発表した。

1699年、スイスの数学者ファティオ・ド・デュイリエが、ライプニッツはニュートンから盗んだ、と示唆した。争いが始まった。

1712年、**王立協会が調査委員会を設置**した。報告書は、ニュートンに有利な結論を出した。

(後に、その報告書の草稿の大半をニュートン自身が書いていたことが判明した。当時、彼は王立協会の会長だった。)

現在の評価。**二人は独立に到達した**。ニュートンが先に着想し、ライプニッツが先に発表した。そして、ライプニッツの記法のほうが優れていた。

イギリスの数学者たちは愛国心からニュートンの記法に固執し、大陸の数学者はライプニッツの記法で解析学を発展させた。その結果、18世紀のイギリスの数学は、大陸に大きく遅れた。

**仕事の幅**。

- **微積分**(記法、微分の規則、基本定理) - **二進法**(1679年、1703年) - **計算機**(段付き歯車。四則演算ができる最初の設計) - **記号論理学**の構想。「普遍記号法(characteristica universalis)」——あらゆる概念を記号で表し、「推論計算(calculus ratiocinator)」で、議論を計算に還元する。「そうすれば、二人の哲学者が論争するとき、彼らは会計士のように、こう言えばよい。**さあ、計算しよう**」。(この構想は、ブールとフレーゲを経て、20世紀の数理論理学と計算機科学に実る。) - **形而上学**。**モナド**(単子)——世界は、窓を持たない無数の単純な実体からなり、それぞれが宇宙全体を映している。予定調和。 - **神義論**。悪の存在と神の善の両立。「これは、**可能なすべての世界のうち、最善の世界**である」。(ヴォルテールが『カンディード』で、リスボン地震を背景に、この主張を徹底的に嘲笑した。) - **力学**。「生きた力(vis viva)」= mv²。デカルト派の運動量 mv との論争。後のエネルギー概念につながる。 - **地質学**、**鉱山技術**(ハルツ山地の銀鉱山で、風車による排水を試み、10年かけて失敗した)、**中国研究**、**言語の系統**、**図書館の分類**、**保険**、**外交**、**教会の再統一**(カトリックとプロテスタントの和解を、生涯、追求した。実らなかった)。

**書簡**。生涯に1100人以上と文通し、**1万5000通**の手紙が残っている。彼の主要な思想の多くは、書物ではなく手紙の中にある。

いま、ハノーファーのライプニッツ文書館に、約20万ページの遺稿がある。全集の刊行は1923年に始まり、**まだ終わっていない**(現在も継続中で、22世紀にかかると見込まれている)。

**晩年**。

1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが、イギリス王**ジョージ1世**として即位した。宮廷はロンドンへ移った。

ライプニッツは、置いて行かれた。系譜の編纂が終わっていないから、というのが理由だった。ニュートンとの争いで彼の名がイギリスで悪かったことも影響したとされる。

彼は痛風と結石に苦しみながら、ハノーファーで書き続けた。

**1716年11月14日**、死去。70歳。

葬儀に参列したのは、彼の秘書ただ一人だった、と伝えられる。ハノーファーの宮廷からも、王立協会からも、ベルリン科学アカデミー(彼が創設し、初代会長を務めた)からも、誰も来なかった。

パリのアカデミーだけが、追悼演説を行った。フォントネルが読んだ。

墓は、ハノーファーのノイシュテッター教会にある。長く、名前だけの簡素な石だった。

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