ゴットフリート・ライプニッツ
概要
ライプツィヒの大学教授の子。父の蔵書を独学で読み尽くした。20歳で法学博士。生涯、ハノーファー侯家の顧問・図書館長・史料編纂官として仕えた。微積分を独自に発見し、いま使われる記号(dxと積分記号)は彼のもの。ニュートンとの先取権争いで晩年を消耗した。二進法、計算機、記号論理、単子論、「可能な世界のうち最善」。哲学、数学、法学、外交、鉱山技術。葬儀に参列したのは秘書一人だったと伝わる。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(1)
ライプニッツの二進法AD1703年 · 書いた本文
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは1646年7月1日、ライプツィヒに生まれた。父フリードリヒはライプツィヒ大学の道徳哲学の教授で、母カタリーナは法律家の娘だった。6歳のとき父が死に、あとに父の蔵書が残った。8歳の少年がその書斎に入りたいと願い出たとき、周囲は反対したが、才能を伸ばすべきだという大人の口添えで許されたと伝えられる。

彼はラテン語をほとんど独学で覚え、12歳でラテン語の詩を書き、ギリシア語に進んだ。スコラ哲学の大部の書物も片端から読んだ。14歳でライプツィヒ大学に入り、20歳で法学博士の論文を書き上げた。しかし大学は若すぎるとして学位を出さず、彼はニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学へ移って、1667年に学位を得た。大学は教授の席を用意したが、彼は断った。生涯、彼はどの大学にも属さなかった。
まずマインツ選帝侯に法律顧問として仕えた。1672年、外交の任務でパリへ送られる。表向きの目的は、ルイ14世の目をドイツからそらすため、エジプト遠征を勧めることだった。この案は実らなかったが、パリでの4年が彼の生涯を決めた。オランダ出身の学者ホイヘンスに出会い、当時の最先端の数学を教わったのである。26歳になるまで、彼はまともな数学の教育を受けていなかった。翌1673年にはロンドンへ渡り、自作の計算機の模型を見せて王立協会の会員に選ばれている。

1675年、彼は微積分に到達した。10月29日の覚え書きに初めて ∫ の記号が現れる。和を意味するラテン語の頭文字 s を縦に引き伸ばしたものだ。11月11日には dx の書き方が出てくる。この二つは、いまも世界中の教科書で使われている。1676年、パリを離れた彼はハーグでバールーフ・スピノザを訪ね、数日にわたって語り合った。
1676年から死ぬまでの40年、彼はハノーファー侯家の宮廷顧問・図書館長・史料編纂官だった。最後の大仕事として命じられたヴェルフ家(ハノーファー侯家)の系譜の編纂は、晩年の30年を食いつぶした。文書を求めてドイツ、オーストリア、イタリアを旅し、膨大な史料を集めたが、ついに完成させなかった。雇い主はいら立ち続けた。

微積分の発表は1684年(微分)と1686年(積分)で、ライプツィヒの学術誌『アクタ・エルディトルム』に載った。アイザック・ニュートンは1665〜66年に同じ考え(流率法)に到達していたが、公表していなかった。1699年、スイスの数学者ファティオ・ド・デュイリエが、ライプニッツはニュートンから盗んだとほのめかし、争いが始まった。1712年、王立協会は調査委員会を設け、ニュートンに有利な結論を出した。のちに、その報告の草稿の大半をニュートン自身が書いていたことが分かっている。当時、ニュートンは王立協会の会長だった。
いまの評価では、二人はそれぞれ独立に到達した。着想はニュートンが先で、発表はライプニッツが先だった。そして記号はライプニッツのほうが使いやすかった。イギリスの数学者たちはニュートンの記法に固執し、大陸の数学者はライプニッツの記法で解析学を押し広げた。18世紀のイギリスの数学は、そのために大陸から大きく遅れたとされる。

仕事の幅は、ほとんど一人の人間のものとは思えない。0と1だけで数を書く二進法を1679年に構想し、1703年にはパリのアカデミーに論文を送った(ライプニッツの二進法)。そこでは、中国にいた宣教師から知らされた易の卦の並びが二進法と重なることにも触れている。歯車を段々にした計算機を設計し、足し算と引き算だけのパスカルの計算機を越えて、掛け算と割り算まで機械でこなそうとした。あらゆる概念を記号で書き、推論を計算に変える「普遍記号法」も構想した。そうなれば、二人の哲学者が論じ合うときも、帳簿係のように「さあ、計算しよう」と言えばすむ、と彼は書いている。この夢は、ブールやフレーゲを経て、20世紀の数理論理学と計算機に実る。
哲学では、世界は窓を持たない無数の単純な実体(モナド、単子)からなり、それぞれが宇宙全体を映していると説いた(『モナドロジー』、1714年)。『弁神論』(1710年)では、悪がある世界と神の善とをどう両立させるかを論じ、この世界は可能なすべての世界のうちで最善のものだ、と結論した。ヴォルテールはリスボン大地震のあとに書いた『カンディード』で、この楽観を徹底的に笑いものにした。

力学では、運動の「力」を質量と速さの二乗の積(mv²、「生きた力」)で測るべきだと主張し、ルネ・デカルト派の運動量(mv)と論争した。これはのちのエネルギーの考えにつながる。ほかにも、ハルツ山地の銀鉱山で風車を使った排水を試みて数年がかりで失敗し、地質学、言語の系統、図書館の分類、保険、中国研究に手を出した。カトリックとプロテスタントの教会を和解させることも生涯追い求めたが、実らなかった。1700年にはベルリンの科学協会(のちのプロイセン科学アカデミー)の設立にかかわり、初代の会長になった。
彼は書物よりも手紙で考える人だった。生涯に1000人を超える相手と文通し、約1万5000通の手紙が残る。ハノーファーに残る遺稿は約20万ページに及ぶ。全集の刊行は1923年に始まり、100年たったいまも終わっていない。

1714年、主君のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世として即位し、宮廷はロンドンへ移った。ライプニッツはついて行くことを望んだが、系譜の編纂が終わっていないとして置いて行かれた。ニュートンとの争いでイギリスでの評判が悪かったことも響いたとされる。彼は痛風と結石に苦しみながら、ハノーファーで書き続けた。生涯、結婚はしなかった。
1716年11月14日、ライプニッツはハノーファーで死んだ。満70歳だった。葬儀に参列したのは秘書ただ一人だったと伝えられる。宮廷からも、王立協会からも、彼が初代会長を務めたベルリンの学会からも、弔いの言葉は出なかった。追悼の演説をしたのはパリのアカデミーだけで、書記のフォントネルが読んだ。墓はハノーファーのノイシュテッター教会にあり、長いあいだ「ライプニッツの骨」とだけ刻まれた簡素な石だった。