公団住宅と2DK
概要
戦後の住宅不足は420万戸と見積もられた。1955年、日本住宅公団が発足し、翌年から鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てた。間取りの標準が2DK。食事をする場所と寝る場所を分ける(食寝分離)という設計思想である。ダイニングキッチン、ステンレスの流し台、水洗便所、そしてベランダ。畳に布団を敷いて一家が寝る暮らしから、椅子とテーブルの暮らしへ。「団地族」と呼ばれた入居者は、抽選の倍率が数十倍の中から選ばれた中間層だった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1945年の敗戦のとき、日本の都市は焼け野原だった。東京大空襲をはじめとする空襲で焼けた住宅は約210万戸にのぼる。そこへ外地からの引揚者や復員兵が600万人以上帰ってきた(引き揚げ)。政府の推計では、住宅は420万戸足りなかった。人々は焼け跡のバラックや防空壕、鉄道の高架下に住み、親戚の家の一間に身を寄せた。
戦前の都市の庶民の住まいは、江戸の裏長屋の流れをくむ長屋や木造の借家である。一部屋か二部屋に一家が暮らし、台所は土間で、かまどにしゃがんで煮炊きをする。便所は汲み取り式で共同のことが多く、水は共同の水道から汲み、風呂は銭湯へ行く。昼は食事をした同じ畳の部屋に、夜は布団を敷いて家族そろって寝た。
この暮らしを、戦前から実地に調べていた建築学者がいる。京都大学の西山夘三である。西山は庶民の家を一軒ずつ訪ね、家族が実際にどう部屋を使っているかを記録した。そこから彼が見出したのは、日本の住宅は狭いが、狭い中でも人は食べる場所と寝る場所を分けようとする、ということだった。二間あれば一方で食べ一方で寝る。一間しかなければ、昼は食卓、夜は寝床と時間で分ける。そして分けられない家では暮らしが荒れる。西山は1940年代はじめにこれを「食寝分離」と名付け、さらに親と子が寝る場所を分ける「就寝分離」も説いた。家族全員が一部屋に寝るのは、子どもの成長にも夫婦の暮らしにもよくない、という主張である。
この考えを図面にしたのが、1951年に建設省が公営住宅のために作った標準設計の一つ「51C型」だった。設計したのは東京大学の吉武泰水の研究室で、鈴木成文らが担当した。40平方メートルに満たない広さの中に、食事のできる台所と、6畳と4畳半の二つの和室を置く。台所で食べ、二つの部屋で親と子が分かれて寝る。これが、のちに「2DK」と呼ばれる間取りの原型である。
1955年7月、大都市に鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てるため、日本住宅公団が発足した。初代総裁は元大蔵官僚の加納久朗である。住宅に困っている中間層を主な対象とし、低い所得の人々は公営住宅、それより上は民間、という分担だった。翌1956年、大阪府堺市の金岡団地で公団最初の入居が始まる。1958年には大阪府枚方市の香里団地、1959年には東京のひばりが丘団地、1960年には千葉県松戸市の常盤平団地が続いた。1960年に皇太子夫妻(当時)がひばりが丘団地を訪ねると、団地の暮らしは全国に知られるようになった。
団地の何が新しかったのか。第一はダイニングキッチンである。立って料理をする流し台と調理台があり、そばにテーブルと椅子を置いて食事をする。土間にしゃがんでかまどに向かう台所からの、大きな転換だった。流し台にはステンレスが使われた。それまでの流しは人造石や木で、水が染みて汚れやすく、洗い物が重労働だった。公団が大量に発注したことでステンレスの流し台は安くなり、やがて一般の家庭にも広がった。この一点だけでも家事を変えたと言われる。
ほかにも、水洗便所、家ごとの浴室、物干しのできるベランダがあった。ただし初期の団地では、浴室があっても浴槽や風呂釜は入居者が自分で据えることがあった。棟は日当たりを考えて東西に長く南向きに建て、間隔を空けて平行に並べた。鉄筋コンクリートの建物は燃えにくく、木造の町が繰り返し大火に見舞われてきた日本では、それ自体が安心だった。
入居は抽選で、倍率は数十倍、人気の団地では100倍を超えることもあった。しかも家賃を払えるだけの収入が入居の条件で、平均的な勤め人の中でも上のほうでなければ申し込めない。入居できたのは、大企業や官公庁に勤める若い夫婦と子どもの家族が中心だった。彼らは「団地族」と呼ばれ、新しい暮らし方の象徴になった。テーブルで食事をし、テレビを見て、電気洗濯機を使い、子どもは二人ほどで、夫の親とは同居していない。週刊誌はこの団地族を、うらやみと冷やかしの両方を込めて書き立てた。
公団は1981年に住宅・都市整備公団に改組されるまでに、賃貸と分譲を合わせて100万戸を超える住宅を建てた。公営住宅や公社の住宅、公庫の融資による民間の住宅を含めると、戦後の住宅の供給に公的な部門が果たした役割はとても大きい。
団地は家族の形も変えた。2DKは夫婦と子どもを前提にした間取りで、祖父母が同居する場所はない。三世代が一つ屋根の下に住む戦前の「家」から、夫婦と子どもだけの世帯へ。日本の平均世帯人員は1955年には5人ほどだったが、2020年には2.2人ほどになった。夫は電車で都心へ通い、妻は団地に残る。専業主婦が都市の中間層の標準になったのはこの頃である。ただしこれは歴史の中では短い時期の姿で、それ以前の多くの女性は農業や家業で働き、1980年代以降は共働きが再び増えていった。
同じ世代の似たような家族が集まる団地では、新しい近所付き合いも生まれたが、古い地縁や血縁は切れた。1960年代から70年代には、団地の主婦の孤独がしばしば論じられた。やがて団地は規模を広げ、街そのものを作るようになる。1962年に入居が始まった千里ニュータウン、1968年の高蔵寺ニュータウン、1971年の多摩ニュータウンである。その考え方の源には、イギリスの田園都市とニュータウンの思想があった。
1970年代以降、住宅政策の重心は、公的な賃貸住宅から、住宅金融公庫の融資などで持ち家を買うのを助ける方向へ移った。郊外の一戸建てや分譲マンションの「マイホーム」が目標になり、団地はそこへ移るまでの仮の住まいと見なされるようになった。
最初期の団地は、いまでは築60年を超えている。エレベーターの無い5階建てで設備は古く、若い夫婦として入居した人々がそのまま年を取り、子どもたちは出ていった。2000年代には、団地での孤独死が社会問題として報じられるようになる。常盤平団地の自治会は、見守りや住民の集いの場づくりで孤独死を防ぐ取り組みを早くから進め、その名を知られた。一方で、広い緑地と南向きの日当たり、手頃な家賃が見直され、若い世代や外国人の入居、古い部屋を作り直す試みも広がっている。
西山夘三は生涯、庶民の住まいを調べ続けた。残した膨大な調査記録やスケッチ、写真は、京都の資料館に収められている。彼が狭い長屋の実地調査から引き出した食寝分離という考えは、居間と食事の場と台所をまとめ、寝室を別にするいまの日本の間取りの、当たり前の前提として生きている。