人物

フレデリック・テイラー

Frederick Winslow Taylor
AD1856年3月20日 – AD1915年3月21日(享年59)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

フィラデルフィアの裕福なクエーカーの家。ハーヴァードに合格しながら、視力を理由に進学せず、機械工の徒弟に入った。ミッドヴェール製鋼で職長になり、労働者との対立から、作業を計測する方法に向かう。高速度鋼の開発でも知られる。ストップウォッチと分析用紙を持ち込み、無駄な動作を削る。1911年『科学的管理法の原理』。効率の思想としてフォードにもレーニンにも受け入れられた。極端な性格で、庭の芝の刈り方まで最適化しようとしたと伝えられる。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

科学的管理法AD1911年 · 提唱

本文

フレデリック・ウィンズロー・テイラーは1856年3月20日、フィラデルフィアのジャーマンタウンに生まれた。家は裕福なクエーカー教徒で、父は法律家だったが、主に財産の収入で暮らしていた。母は奴隷制の廃止と女性の権利の運動にかかわった人である。家のしつけは厳格だった。

フレデリック・テイラー
フレデリック・テイラーWikimedia Commons Gessford (New York) [1] · Public domain

少年時代の彼については、妙な逸話がいくつも伝わっている。舞踏会の前に、感じのよい娘とそうでない娘の一覧を作り、それぞれと同じ時間ずつ踊る計画を立てた。クロッケーで球を打つ角度を計算した。歩くときの歩幅を測った。伝記作家たちがくり返し語る話で、脚色も混じっているだろうが、測って最善を決めずにいられない性分はうかがえる。

名門のフィリップス・エクセター校を出てハーヴァード大学に合格したが、彼は進学しなかった。夜遅くまで勉強しすぎて目を痛めたため、と説明されてきたが、ほかの理由を推し量る研究者もいて、はっきりしない。18歳の彼は、フィラデルフィアのポンプ工場に機械工の見習いとして入った。裕福な家の息子が工場で働くのは、当時きわめて珍しいことだった。

ミッドヴェール製鋼所の空撮(1879年)
ミッドヴェール製鋼所の空撮(1879年)Wikimedia Commons Hexamer · Public domain

1878年、彼はミッドヴェール製鋼所に一労働者として入り、6年ほどのうちに職長から技師長へと昇った。そのかたわら、ほとんど通学せずに試験を受ける形で、スティーヴンス工科大学の機械工学の学位を1883年に取った。

職長になった彼は、かつての仲間たちと衝突した。当時の工場では、労働者たちは、速く働けば単価を下げられるだけだと知っていたので、仲間うちで仕事の速さを抑えていた。テイラーはそれを崩そうとし、労働者たちは組織だって抵抗した。数年にわたる不快な戦いだったと彼はのちに語り、夜道で待ち伏せを恐れたことにも触れている。この経験から、彼は一つの結論にたどり着く。争いが起きるのは、一日にどれだけの仕事が正当なのかを誰も知らないからだ。ならば測って決めればよい。

ベスレヘム製鋼所(1896年)
ベスレヘム製鋼所(1896年)Wikimedia Commons William H. Rau · Public domain

彼はストップウォッチを持ち込み、作業を細かな動作に分け、それぞれにかかる時間を測った。無駄な動きを削り、道具の形をそろえ、最もよいやり方を一つ決めて、それを労働者に教える。決められた量をこなした者には高い賃金を払う。のちにベスレヘム製鋼所では、銑鉄の塊を貨車に積む作業を調べ、休みの取り方まで指示して、一人が一日に運ぶ量を何倍にも増やしたと報告した。この報告には、数字を都合よく整えたのではないかという疑いも、のちに向けられている。

忘れられがちだが、彼はすぐれた金属の技術者でもあった。1898年から1900年にかけて、ベスレヘムで同僚のホワイトとともに、タングステンとクロムを含む鋼を特別な熱処理で仕上げる方法を開いた。刃が赤く焼けるほど熱くなっても硬さを失わず、金属を削る速さが何倍にもなった。1900年のパリ万国博覧会でこの実演は評判をさらった。特許からの収入で、彼は後年、報酬なしで講演や指導をして回ることができた。

カール・バースによる切削速度・送り計算用の計算尺
カール・バースによる切削速度・送り計算用の計算尺Wikimedia Commons Tasma3197 · Public domain

1903年に『工場管理』を、1911年に『科学的管理法の原理』を出した(科学的管理法)。後者は薄い本だが、十数か国語に訳されて広く読まれた。同じころ、陸軍の工廠に彼の方法が持ち込まれるとストライキが起き、議会が特別の委員会を設けた。1912年1月、テイラーは何日にもわたって証言した。記録に残る彼は守りに入り、いら立ち、自分の方法は誤解されているとくり返した。

彼の考えは、国も体制も越えて受け入れられた。ヘンリー・フォードの工場では、作業を細かく分け、人を動かさずに部品を流すフォードの流れ作業が生まれた。革命後のロシアではレーニンが、資本主義の搾取の道具であると同時に科学の成果でもあるとして、これを取り入れるよう説いた。

人柄も極端だった。不眠に苦しみ、悪夢を避けようとさまざまな工夫をした。スポーツでも何かを測らずにいられず、若いころには全米のテニス選手権でダブルスに優勝している。ゴルフでは自分で奇妙な形のパターを考え、ゴルフ場の芝の育て方を何年も研究した。

1915年3月21日、テイラーはフィラデルフィアの病院で肺炎のため死んだ。59歳の誕生日の翌日だった。最期の朝、目を覚まして懐中時計のねじを巻き、その直後に息を引き取ったと伝えられる。あまりにできすぎた話だが、くり返し語られてきた。墓碑には「科学的管理法の父」と刻まれている。

いま彼の名は、人を機械の部品のように扱う考え方を責めるときに使われることが多い。それでも、彼の方法はあらゆるところにある。測ること。最もよい手順を決めること。そして、考える人と手を動かす人を分けること。三つ目こそが、のちに最も強く批判され、そしていまもいちばん根強く残っているものである。

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