できごと

ピコ『人間の尊厳について』

Oration on the Dignity of Man
AD1486年
重要度 4
シベリアの諸集団カルマル同盟白帳ハン国キプチャク汗国青帳ハン国ティムール朝マムルーク朝ノヴゴロド公国オスマン帝国ポーランド・リトアニア共和国マリ帝国サーミ神聖ローマ帝国リトアニア大公国ハフス朝フランス王国ソンガイ帝国ポーランド王国English territoryマクリアカスティーリャ王国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトセルジューク朝モロッコTeutonic Knightsイエメンアラゴン王国ポルトガル帝国シチリア王国ポルトガルヴェネツィア共和国Bosniaスコットランドワラキア公国Beylik of Aydinブルガール可汗国モルドバAD1486年ローマ
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概要

23歳の伯爵が900の命題を掲げ、ヨーロッパ中の学者を討論に呼んだ。教皇が13を異端として禁じた。序文の演説。「神は人間に定まった場所も形も与えなかった。あなたは自分で自分を作る」。討論は開かれず、演説だけ残った。「ルネサンスの宣言」。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

ピコ・デッラ・ミランドラAD1463年2月24日–AD1494年11月17日 · 著者

本文

1486年12月、ローマで一冊の小さな本が刷られた。題は『哲学・カバラ・神学の結論』。書いたのは北イタリアの小さな領地ミランドラの伯爵家の息子、ピコ・デッラ・ミランドラで、23歳だった。本には900の命題が並び、彼はこれを公開の場で論じ合うために、ヨーロッパ中の学者をローマへ招いた。旅費は自分が出す、と書き添えた。討論は翌年の1月6日、公現祭の日に開くつもりだった。

ピコは1463年に生まれ、ボローニャで教会法を、パドヴァやパリで哲学を学んだ。フィレンツェではロレンツォ・デ・メディチの庇護のもとでプラトンを訳していた学者フィチーノと親しくなり、ユダヤ人の学者からヘブライ語とアラム語、そしてユダヤ教の神秘思想カバラを学んだ。若く、裕福で、何でも読む人だった。ローマへ向かう途中の1486年5月には、アレッツォでメディチ家の縁者の妻を連れて逃げようとして追っ手に捕まり、負傷するという騒ぎも起こしている。

ピコ・デラ・ミランドラ
ピコ・デッラ・ミランドラWikimedia Commons Cristofano dell'Altissimo · Public domain

900の命題は、アリストテレス派、プラトン派、アラビアの哲学者、カバラ、さらに古代の秘教の文書までを並べ、どれもが一つの真理の別の顔だと示そうとするものだった。教皇インノケンティウス8世は討論を差し止め、委員会に調べさせた。委員会は13の命題を異端、あるいは異端の疑いがあるとした。ピコはすぐに『弁明』を書いて反論したが、これがかえって教皇を怒らせ、1487年8月、教皇は900の命題すべてを禁じた。ピコはフランスへ逃れたが、1488年の初めにリヨンの近くで捕らえられ、パリ近くのヴァンセンヌに閉じ込められた。ロレンツォ・デ・メディチらのとりなしで放され、フィレンツェに落ち着いた。

討論の冒頭で読むはずだった演説の原稿は、こうして読まれないまま残った。ピコの死後の1496年、甥のジャンフランチェスコが遺稿を集めて刷ったとき、これはただ「演説」とだけ題されていた。『人間の尊厳について』という題は、のちの版でつけられたものである。

演説は、アラビアの書物の話から始まる。この世の舞台で何がいちばん驚くべきかと問われたサラセン人アブダラは、人間ほど驚くべきものはない、と答えたという。ではなぜ人間なのか。ピコは創世の場面を描く。神は万物を作り終えたあと、最後に人間を作ったが、もう与えるべき型が残っていなかった。そこで神はアダムに言う。私はおまえに定まった場所も、固有の姿も、特別な役目も与えなかった。おまえは天のものでも地のものでもなく、死すべきものでも不死のものでもない。おまえは自分の意志で、自分を形作る者として、望む形に自分を作るのだ。獣へ堕ちることもできれば、神に近いものへ生まれ変わることもできる、と。ピコは人間を、色を変えるカメレオンや、姿を変える海の神プロテウスにたとえた。

人間の値打ちは、生まれついた位ではなく、自分で選べることにある。この一節は、のちに近代の自由の考えの先がけとして何度も引かれた。ただ、演説の後半はむしろ、そうして自由を得た人間が哲学と神学の段を上り、神との一致に至る道を語っている。プラトンとアリストテレスは争っているように見えて一致する。モーセとゾロアスター、オルフェウス、ピュタゴラス、カバラは同じ真理を伝えている。自然の力を知って用いる「魔術」は悪魔の業ではなく、自然の完成である。そしてカバラはキリスト教の正しさを証すものだ、と彼は言う。ユダヤ教の文献をキリスト教徒が読むべきだというこの主張は、ドイツの人文学者ロイヒリンに受け継がれた。

1493年、新しい教皇アレクサンデル6世がピコの罪を解いた。晩年のピコは、ドミニコ会士サヴォナローラの説教に深く動かされ、財産を手放して修道士になることさえ考えていたとされる。1494年11月17日、フランス王シャルル8世の軍がフィレンツェに入ったその日(イタリア戦争)、ピコは熱病で死んだ。31歳だった。秘書に毒を盛られたという噂は当時からあり、2007年に掘り出された遺骨からは、毒殺を思わせる量のヒ素が見つかったと報告されている。遺体はドミニコ会の修道服を着せられ、サン・マルコ修道院に葬られた。

1860年、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』(物語「『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス」)で、この演説をその時代のもっとも高貴な遺産の一つと呼んだ。以来、これは「ルネサンスの宣言」として教科書に載るようになった。23歳で書かれ、聞く人のないまま残り、書いた本人の死後に、別の題をつけられて世に出た演説である。

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