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Event / できごと

ペスタロッチのシュタンツ孤児院

Pestalozzi at Stans
AD1799年1月
重要度 4

概要

フランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。

場所

シュタンツ
46.96°N 8.37°E · スイス

関わった人(1)

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチAD1746年1月12日–AD1827年2月17日 · 住んだ

本文

1798年、フランス軍がスイスに入って、ヘルヴェティア共和国を作った。ニトヴァルデン(ルツェルン湖の南の小さなカトリックの州)は、新しい憲法への宣誓を拒んだ。9月9日、フランス軍1万5000が入った。村が焼かれ、住民が殺された。シュタンツ。死者は400人以上(人口1万)。169人の子供が孤児に、237人が片親に。

ペスタロッチは52歳。ノイホーフの農場で貧民の子を教えて破産し、小説を書いて有名になり、ヘルヴェティア共和国の側に立って新聞を書いていた。共和国の教育担当のシュターファーが「シュタンツに孤児院を」。ペスタロッチが「私が行く」。友人は止めた。「私は行きたい。私は、子供たちと一緒に暮らしたい。私は、私の理念を、生活の中で試したい」。

1798年12月7日、シュタンツに着いた。ウルスラ会修道院の建物(新しく、まだ湿っていた)。部屋は一つ。台所も、寝室も、教室も。家政婦が一人。ペスタロッチが一人。1799年1月、子供が来た。初め45人、やがて80人。「シラミだらけで、痩せて、骨の上に皮が張り付いて、歯が抜けて、疥癬で、傷だらけで、疑い深く、物乞いの癖がついていて」。

「私は朝から晩まで、ほとんど一人で、子供たちの間にいた。子供たちの体と心に必要なもの全部が、私の手から来た。私の手は彼らの手の中に、私の目は彼らの目の上にあった。私の涙は彼らの涙と共に流れ、私の笑いは彼らの笑いに伴った。彼らは世界を離れ、シュタンツを離れて、私と共にいた。私は彼らと共にいた。彼らのスープは私のスープ、彼らの飲み物は私の飲み物だった。私は何も持たず、家政も、友人も、召使いもなく、ただ彼らだけを持っていた。彼らが健康なとき、私は彼らの中にいて、病気のとき、私は彼らの側にいた。私は彼らの間で、真ん中で、寝た。夜、私は最後に床につき、朝、最初に起きた。そして、ベッドの中で、彼らが眠るまで、私は彼らと祈り、話した」(『シュタンツ便り』、1799年の友人ゲスナーへの手紙)。

村の人は疑った(プロテスタントの、共和国の、チューリヒの男。カトリックの子を、異端にする)。親は子を取り戻しに来た。ペスタロッチは「学校」でなく「家」を作ろうとした。「まず、子供の心を得なければならない」。読み書き算を教えたが、方法は、生活の中で。「教えるというより、共に暮らすことによって」。子供たちが子供たちを教えた(年長が年少を)。1799年3月、アルトドルフの村が焼かれたとき、ペスタロッチは子供たちに「アルトドルフの孤児を、ここに受け入れるか。そうすれば、食べ物と服が減る」と聞いた。子供たちは「受け入れる」と言った。

1799年6月8日。フランス軍がシュタンツに戻って、修道院の建物を野戦病院にすると言った。子供たちは家に帰されるか、他の施設へ。ペスタロッチは倒れて(喀血)、グルニゲルの温泉へ。半年。

ブルクドルフ(1800〜04年)。『ゲルトルートはいかにその子を教えるか』(1801年)。「直観(アンシャウウング)」。数、形、言葉。母親。イヴェルドン(1805〜25年)。ヨーロッパ中から、教師と、見学者。フレーベル(1808〜10年)、ヘルバルト(1799年にブルクドルフで)、フィヒテ(『ドイツ国民に告ぐ』1808年で「ペスタロッチの方法でドイツを再生せよ」)。イヴェルドンは内紛で崩れた。1827年、死んだ。81歳。「私は、私の全部を、私の子供たちに与えた。それ以外の何も」。

『シュタンツ便り』は、半年の失敗の記録で、教育学で最も読まれた文書の一つ。

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