ペスタロッチのシュタンツ孤児院
概要
フランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。
場所
46.96°N 8.37°E · スイス
関わった人(1)
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチAD1746年1月12日–AD1827年2月17日 · 住んだ本文
1798年、フランス革命の軍がスイスに入り、古い州の連合を壊して、フランスにならった中央集権の「ヘルヴェティア共和国」を打ち立てた。ルツェルン湖の南にある山あいのカトリックの小さな地方、ニトヴァルデンは、新しい憲法に忠誠を誓うことを拒んだ。信仰と昔からの自治を奪われると考えたからである。その年の9月、フランス軍が攻めこみ、激しい戦いのあと、中心の村シュタンツをはじめ多くの村が焼かれた。住民の死者は数百人に及び、親を失った子どもたちが焼け跡に残された。
このとき、子どもたちの世話を引き受けたのが、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチである。チューリヒ生まれのこの52歳の男は、それまで失敗を重ねてきた人だった。若いころ農場を開いて貧しい子どもたちを引き取り、働きながら学ばせようとしたが、経営に行き詰まって破産した。その後、農村の母親が子どもを育てる姿を描いた小説『リーンハルトとゲルトルート』で名を知られたが、自分の手で子どもを教えるという夢は果たせずにいた。新しい共和国の改革に共鳴していた彼は、共和国の教育を担う大臣シュタプファーに、シュタンツに孤児の施設を作る仕事を任された。友人たちは、年老いた理想家に何ができるかと止めたが、彼は、子どもたちと一緒に暮らし、自分の考えを生活の中で試したい、と言って出かけた。

1798年の12月、ペスタロッチはシュタンツに着いた。用意されたのは、ウルスラ会の女子修道院の、まだ工事が終わっていない新しい建物だった。壁は湿り、使える部屋はわずかで、一つの部屋が台所にも寝室にも教室にもなった。手伝いは家政婦が一人だけ。1799年の1月から子どもたちが集まり始め、その数はやがて80人ほどになった。のちに彼自身が書いたところでは、子どもたちはやせこけ、皮膚病やシラミに冒され、物乞いの癖がつき、大人を疑う目をしていた。
ペスタロッチは、学校を開くより先に、家を作ろうとした。まず子どもの心を得なければ何も始まらない、と考えたからである。彼は朝から晩まで子どもたちの中にいて、食べるものも寝る場所も同じにした。後に友人にあてた手紙で、彼は、自分の手は子どもたちの手の中にあり、目は子どもたちの目に注がれ、涙も笑いも子どもたちと共にあった、夜は子どもたちが眠るまで共に祈り、語り、最後に床に就き、朝は誰より先に起きた、と書いている。

教え方も、教科書を暗記させるやり方ではなかった。身の回りの物を見て、数え、形を確かめ、名前を言う。読み書きや計算は、暮らしの必要と結びつけて教えた。年上の子が年下の子に教え、子どもたちどうしが助けあう仕組みを作った。体を使って働くことも、学ぶことの一部とされた。頭と心と手を一つに育てる、というのちに彼の教育の合言葉となる考えが、ここで形をとり始めた。
すべてが順調だったわけではない。村の人々は、共和国から送られてきたプロテスタントのよそ者を疑い、カトリックの子どもを奪って異教に染めるのではないかと恐れた。親や親戚が子どもを連れ戻しに来ることもあった。それでも子どもたちは少しずつ心を開いていった。1799年4月、隣の州の町アルトドルフが大火で焼けたとき、ペスタロッチは子どもたちに、焼け出された子どもたちをここに迎えるか、そうすれば君たちの食べ物も服も減るが、と尋ねた。子どもたちは、迎えたい、と答えたという。

だが、試みは半年ほどで断ち切られた。1799年6月、戦争の前線が近づき、フランス軍が修道院の建物を傷病兵の病院として使うことになったのである。子どもたちは親類のもとへ帰されたり、ほかの施設へ移されたりした。ペスタロッチ自身も疲れ果てて血を吐き、山の温泉で療養しなければならなかった。
失敗に終わったように見えたこの半年は、彼の後半生の出発点になった。療養のあとペスタロッチは、ベルン近郊のブルクドルフで学校を開き、1801年には『ゲルトルートはいかにその子を教えるか』を書いて、子どもが物をじかに見て感じとる「直観」から教育を始めるという方法をまとめた。1805年からは、ヌーシャテル湖のほとりのイヴェルドンで学校を開き、ここにはヨーロッパ中から教師や見学者が集まった。若きフリードリヒ・フレーベルもイヴェルドンで学び、のちに幼稚園を始める(フレーベルと幼稚園)。ドイツの哲学者フィヒテは、ナポレオンに敗れた祖国の再生を説いた講演で、ペスタロッチの教育法を国民教育の手本に挙げた。プロイセンは教師を彼のもとへ学びに送った。スコットランドでニュー・ラナークの実験を進めていたオーウェンも、彼を訪ねている。

イヴェルドンの学校は、晩年には教師たちの内紛で衰え、1825年に閉じられた。ペスタロッチは1827年に81歳で亡くなった。墓碑には、すべてを他人のために、自分のためには何も、という言葉が刻まれている。
シュタンツの経験を記した友人への手紙は、のちに『シュタンツ便り』と呼ばれ、わずか半年の、しかも途中で終わった試みの記録でありながら、教育の歴史の中で最も読まれてきた文章の一つになった。教えることより先に、子どもと共に暮らし、信頼を得ること。その考えは、いまも教師や保育に携わる人々の間で読み継がれている(物語「教育の歴史」)。