孔子の遍歴
概要
魯の官職を捨て、14年、諸国を回って自分を用いる君主を探した。どこにも用いられず、故郷に帰って弟子を教えた。その弟子が言葉を書き留める。
場所
35.60°N 116.99°E · 中国・山東省
関わった人(1)
孔子BC551年–BC479年 · 遍歴本文
紀元前6世紀の中国は、周の王の権威が衰え、各地の諸侯が力を争う春秋時代の後半にあった(春秋の争覇と鉄製農具)。諸侯の国の中でも、君主の力は家臣の有力な家に奪われつつあった。孔子の生まれた魯の国では、季孫氏、叔孫氏、孟孫氏の三つの家が実権を握り、君主は飾り物に近かった。礼と秩序が崩れていく時代だった。
孔子は紀元前551年ごろ、魯の国の陬という村で生まれた。父は武人で、孔子が幼いうちに亡くなった。若いころは貧しく、倉庫の番や家畜の世話といった低い役目をこなしながら学んだと伝えられる。のちに、自分は若いころ身分が低かったので、つまらない仕事を多くこなせるのだ、と語っている。古い礼や音楽、歴史に通じた学者として名が知られるようになり、身分を問わず弟子を集めて教えた。

50歳を過ぎて、孔子はようやく魯の政治の場に立った。中都という町の長官を務めたのち、国の司法をつかさどる大司寇の位にまで上った。『史記』によれば、隣の大国の斉との会見では、魯の君主に付き従い、礼にもとづいて斉の無礼を退け、奪われていた土地を取り戻させたという。また、三つの家の勢力を削ぐために、それぞれの家の本拠の城壁を取り壊させようとしたが、途中で反発を受けて果たせなかったと伝えられる。
孔子が政治にあたる間、魯はよく治まったと『史記』は書く。それを恐れたのが斉だった。斉は、歌と踊りに長けた80人の女たちと、美しく飾った馬を魯に贈った。実力者の季桓子はそれを受け取り、君主とともに楽しみにふけって、三日のあいだ朝廷に出なかった、と『論語』は記している。

孔子はなおしばらく待った。天の祭りが行われた後、慣わしでは祭りに供えた肉が重臣たちに分け与えられる。その肉が、孔子のもとには届かなかった。孔子はこれを機に魯を去った。紀元前497年、50代の半ばのことである。孔子は国を去るときもすぐには立ち去らず、ゆっくりと歩みを進めた、と孟子は伝えている。父母の国を去るときの心得だという。
そこから14年にわたって、孔子は弟子たちを連れて諸国を巡った。衛、曹、宋、鄭、陳、蔡、そして南の大国楚の国境の町まで。自分の理想とする政治、つまり徳と礼によって人を治める政治を実行させてくれる君主を探す旅だった。

だが、どこの君主も孔子を本当には用いなかった。君主たちが知りたかったのは、すぐに国を強くし、戦に勝つ方法だった。衛の霊公が軍の陣立てを尋ねたとき、孔子は、祭りの器のことなら学んだが、軍のことは学んでいない、と答えて、翌日には衛を去ったと『論語』にある。
旅は危険の連続だった。匡という町では、かつてそこを荒らした魯の陽虎という人物に顔が似ていたために、人々に取り囲まれた。宋では、孔子が弟子たちと大きな木の下で礼の稽古をしていると、宋の司馬の桓魋が孔子を殺そうとして、その木を切り倒させた。弟子たちが逃げるよう急かすと、孔子は、天が私に徳を授けてくださったのだ、桓魋ごときが私をどうできよう、と言ったと伝えられる。鄭では弟子とはぐれ、門の前に立ちつくす姿を、家を失った犬のようだと評された。孔子はそれを聞いて、いかにもその通りだ、と笑ったという。

最もつらかったのは、陳と蔡の国の間で食料が尽きたときだった。『論語』によれば、従っていた弟子たちは病み疲れて立ち上がることもできなくなった。気性の激しい弟子の子路が、腹を立てて詰め寄った。君子でも行き詰まることがあるのですか。孔子は答えた。君子はもとより行き詰まることがある。つまらない人間は、行き詰まると乱れて何でもしてしまうのだ。
紀元前484年、68歳になった孔子は、ようやく故郷の魯に帰った。魯の実力者に招かれてのことだったが、政治の中心に用いられることはなかった。孔子は以後、弟子の教育と、古い書物の整理に力を注いだ。魯の年代記『春秋』は孔子がまとめたものと伝えられ、詩や書の古典を整えたとも言われる。弟子は3000人を数え、六芸と呼ばれる学問と技芸に通じた者が70人あまりいたと『史記』は書くが、この数はのちの誇張とみられている。

晩年には悲しみが続いた。息子の鯉に先立たれ、最も愛した弟子の顔回が若くして死んだとき、孔子は、ああ、天は私を滅ぼした、と嘆いた。子路も衛の内乱で命を落とした。紀元前479年、孔子は73歳ごろでこの世を去った。
生前の孔子は、政治の上では挫折した人だった。だが、旅の中で弟子たちに語った言葉は、弟子とそのまた弟子たちによって書き留められ、のちに『論語』にまとめられた(『論語』の成立)。その教えは、孟子らに受け継がれて儒家の思想となり、漢の時代には国の学問に据えられて、2000年以上にわたり東アジアの政治と道徳の土台になった。用いられなかった14年の旅が、かえって教えを形づくる時間になった。