周公旦
概要
武王の弟。幼い成王の摂政として反乱を鎮め、封建と礼楽の制度を整え、7年で王位を返した。儒家が最初の聖人と数え、『周礼』を仮託した。
関わったできごと(1)
周公旦の摂政BC1042年頃 · 摂政本文
周公旦は、3000年前の人である。伝わっていることの多くは、数百年後に儒家がまとめた書物と、漢の時代の司馬遷の『史記』によるもので、どこまでが史実かを見分けるのは難しい。それでも、同じ時代の青銅器の銘文にも「周公」の名が刻まれており、実在した有力者だったことは確かとされる。

周は、黄河の支流の渭水のほとり、いまの陝西省のあたりに興った国で、当初は東の大国、殷に従っていた(殷の成立)。旦は周の君主、のちに文王と呼ばれる人の子で、兄の発が父の後を継いだ。周公という呼び名は、周の地を領地としたことによる。
紀元前11世紀の半ば、兄の発、すなわち武王は諸侯を率いて殷を攻め、牧野の戦いで殷の紂王を破った(牧野の戦い(殷周革命))。旦は兄を助けてこの戦いに加わったとされる。だが周は、まだ広い殷の旧領を治める仕組みを持っていなかった。武王は殷の王子の武庚を殷の旧都に残して遺民を治めさせ、自分の弟たちをその周りに置いて見張らせた。

殷を倒して2年ほどで、武王は病に倒れた。『書経』には、旦が祖先の霊に、兄の代わりに自分の命を取ってほしいと祈り、その祈りの文を金で封じた箱に納めた、という話がある。武王はまもなく亡くなり、後を継いだ息子の成王はまだ幼かった。旦は摂政として政治を取り仕切ることになった(周公旦の摂政)。
これに疑いを抱いたのが、殷の遺民を見張っていた兄弟の管叔と蔡叔たちだった。旦は幼い王から位を奪うつもりではないか、という噂が流れた。兄弟たちは、見張るはずだった殷の王子武庚と手を結び、東方の諸族を巻き込んで反乱を起こした。生まれたばかりの王朝が、内側から崩れかねない危機だった。

旦は自ら軍を率いて東へ向かい、3年をかけて反乱を鎮めた。武庚と兄の管叔を殺し、弟の蔡叔を追放した。肉親を討ってでも王朝を守ったことになる。さらに、東方を治める拠点として、黄河の中流、いまの洛陽のあたりに新しい都を築いた。のちに洛邑あるいは成周と呼ばれる町で、殷の遺民の有力者たちをここへ移して監視した。
反乱の後、周は王族や功臣を各地に送り、その土地を治めさせた。それぞれが周の王に従いながら、自分の国を持つ。これが「封建」の始まりとされる。旦自身の長男は、東方の魯の国に封じられた。数百年後、この魯の国に孔子が生まれる。

旦はまた、儀礼と音楽の決まりを定めたと伝えられる。「礼」は、祭祀や宴、身分に応じたふるまいの作法で、人と人、人と祖先の関係に秩序を与えるもの。「楽」はそれに伴う音楽である。力ではなく秩序と作法で天下を治める、という理想が、ここに託された。ただし、後に周公の作とされた礼の体系の多くは、のちの時代に整えられたものと考えられている。
摂政になって7年目、成王が成長すると、旦は政治の権限を王に返し、臣下の位置に戻った。権力を手にしながら、奪わずに返したこの振る舞いを、後の儒家は最も高く評価した。もっとも、戦国時代の荀子のように、旦は一時的に天子の位そのものに就いていたと読める書き方をする者もいて、実際の姿には議論がある。
人材を大切にした逸話も残る。『史記』によれば、旦は息子を魯に送り出すとき、自分は一度髪を洗う間に三度髪を握って客に会い、一度食事をする間に三度口の中のものを吐き出して客に会った、それでも優れた人を失うことを恐れている、と戒めたという。後漢末の曹操は詩の中でこの話を引き、自分も周公のように人を迎えたいと詠んだ。
儒家にとって、周公は特別な存在になった。孔子は周の制度を理想とし、自分はその道を伝える者だと考えていた。年老いた孔子が、ひどく衰えたものだ、長いあいだ夢に周公を見なくなった、と嘆いた言葉が『論語』に残っている(『論語』の成立)。周公は、聖人の系譜のなかで、王ではない者として孔子へ道をつなぐ位置に置かれた。

六つの官庁で国を運営する理想の制度を描いた書物『周礼』も、周公の作とされた。だが、実際には戦国時代から漢の頃に書かれたものと考えられている。後世、この書物は政治の改革を志す人々の手本になった。周の制度に戻ることを掲げて帝位に就いた王莽は、自らを周公になぞらえ、『周礼』に基づいて国の仕組みを作り替えようとした。
幼い君主を支える摂政が現れるたびに、その人は周公にたとえられた。権力を持ちながら奪わない者の手本として。そしてときに、手本を名乗りながら位を奪う者の口実として。周公旦の名は、その両方の意味で2000年以上使われ続けた。