『自省録』

概要
北方の戦陣で皇帝が自分に向けて書いた覚え書き。公開するつもりのない文章が残った。
関わった人(1)
マルクス・アウレリウス121年4月26日–180年3月17日 · 著者本文
マルクス・アウレリウスは121年、ローマの名門に生まれた。少年のころから哲学に打ち込み、粗末な外套を着て床に寝ようとして母に止められたと伝えられる。皇帝ハドリアヌスは彼を気に入り、後継者に決めたアントニヌス・ピウスに、マルクスを養子にするよう命じた。161年、アントニヌスが死ぬと、マルクスは義理の弟ルキウス・ウェルスとともに帝位に就いた。二人の皇帝が並び立つのは、ローマで初めてのことだった。
哲人が皇帝になった時代は、平穏ではなかった。即位の年にパルティアが東方で戦争を仕掛け、遠征から戻った軍が疫病を持ち帰った(アントニヌスの疫病)。疫病は帝国全土に広がり、十数年にわたって繰り返し流行した。166年ごろからは、ドナウ川の北のマルコマンニ族やクアディ族などのゲルマン系の部族が国境を越えて押し寄せ、北イタリアにまで攻め込んだ(マルコマンニ戦争)。169年にルキウスが死ぬと、マルクスはひとりで帝国を背負い、晩年の10年余りの大半を、ドナウ川の前線の陣営で過ごした。

『自省録』は、その陣営で書かれたと考えられている。第1巻の終わりには「グラヌア川のほとり、クアディ族の地にて」、第2巻の終わりには「カルヌントゥムにて」と書き添えられている。言葉はラテン語ではなく、教養人の言葉だったギリシア語である。全部で12巻あるが、本人が付けた題は無く、写本に残る「自分自身へ」という言葉が、のちに書名のように扱われた。日本語では『自省録』と訳されている。
第1巻は、感謝の目録である。祖父からは穏やかな気質を、母からは信心と、悪いことをしないだけでなく考えもしないことを、師のルスティクスからは文飾に走らないことと、奴隷出身の哲学者エピクテトスの講義録を教わった、と一人ひとりの名を挙げて書き留めている。マルクスが拠り所にしたのは、このエピクテトスらのストア派の哲学だった。

第2巻からは、自分への言い聞かせが続く。朝起きたら、自分に言い聞かせよ。今日もおせっかいな者、恩知らず、傲慢な者、嘘つき、嫉妬深い者に会うだろう。だが彼らがそうなのは、善と悪を知らないからだ。自分は彼らに害されることはない、同じ人間として共に働くために生まれてきたのだから、と。物事そのものが人を苦しめるのではなく、それについての自分の判断が苦しめる。だから判断を取り除けば、苦しみも消える。
死についても繰り返し書いている。アレクサンドロス3世も、その馬丁も、死んで同じところへ行った。まもなくおまえはすべてを忘れ、まもなく皆がおまえを忘れるだろう。名声を求めるのはむなしい。今この瞬間に、自分に与えられた務めを、正しく、人間らしく果たせ。同じ戒めが言葉を変えて何度も現れるのは、書き手がそれを何度も自分に言い聞かせなければならなかったからだろう。皇帝として毎日、戦争と疫病と裁判と陳情に向き合いながら、心の平静を保とうとした格闘の跡である。

その人柄を伝える逸話もある。175年、東方の総督アウィディウス・カッシウスが、マルクスが死んだという誤った噂を信じて帝位を名乗った。反乱はすぐに崩れ、カッシウスは部下に殺された。マルクスは、カッシウスと通じていた者たちの手紙を、読まずに焼かせたと伝えられる。一方で、彼の治世の177年には、ガリアのルグドゥヌム(今のリヨン)でキリスト教徒が迫害され、多くが殺されている。哲人皇帝の治世も、すべてが寛容だったわけではない。
マルクスは180年3月、ドナウの前線の陣営で病死した。58歳だった。帝位は、すでに共同の皇帝にしていた実の息子のコンモドゥスが継いだ。それまでの皇帝は、実子がいないこともあって、ふさわしい人物を養子に迎えて後継者にしてきた。マルクスは実の息子を選び、コンモドゥスは剣闘士の真似事に熱中し、政治を側近に任せて、192年に暗殺された。五賢帝の時代は、ここで終わった。後世の歴史家カッシウス・ディオは、マルクスの死とともに、ローマは黄金の国から錆びた鉄の国へと落ちた、と書いている。
『自省録』が、どのように後世に伝わったのかはよく分かっていない。人に読ませるつもりのない覚え書きは、誰かの手で保存され、写し継がれた。古代の文献で言及されることはほとんどなく、はっきりした記録が現れるのは10世紀のビザンツ帝国になってからである。1559年にスイスのチューリッヒで初めて印刷されると、ヨーロッパで広く読まれるようになった。
以来、『自省録』は、地位も時代も違う多くの人々の枕元に置かれてきた。ローマのカピトリーノの丘に残るマルクスの騎馬像は、中世の人々が初代のキリスト教徒の皇帝コンスタンティヌスの像だと思い込んでいたために、溶かされずに残ったとされる。ローマ帝国で最も権力を持った人物が、自分の弱さと向き合って書いた私的な言葉が、2000年近く後の読者に届いている。