人物

トマス・アクィナス

Thomas Aquinas
AD1225年 – AD1274年3月7日(享年49・推定)
ナポリ王国重要度 5

概要

アクィノの伯爵の子。ドミニコ会に入るのを家族が1年幽閉して止めた。「もの言わぬ牛」とパリの学生が呼び、アルベルトゥスが「この牛の声は世界に響く」。『神学大全』『対異教徒大全』。太っていて、机に半円を切った。リヨンへ向かう途中で死んだ。1323年、聖人。「天使博士」。

関わったできごと(1)

トマス・アクィナス『神学大全』AD1274年頃 · 著者

本文

トマス・アクィナスは1225年ごろ、イタリア南部、ナポリとローマの間にあるロッカセッカの城で生まれた。父はアクィノ伯の一族ランドルフォで、母テオドラもナポリの貴族の出だった。末っ子のトマスは、5歳で近くのモンテ・カッシーノの修道院に預けられた。両親は、いずれ彼がこの名高い修道院の院長になることを期待していた。幼いトマスは、神とは何か、と修道士たちに繰り返し尋ねたと伝えられる。

トマス・アクィナスの肖像
トマス・アクィナスの肖像Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

1239年、修道院が皇帝と教皇の争いに巻き込まれると、トマスはナポリの大学に移った。皇帝フリードリヒ2世が作ったこの大学で、彼はアリストテレスの自然学に触れた。そして1244年、新しくできた托鉢修道会、ドミニコが始めたドミニコ会に入った(ドミニコ会の認可)。財産を持たず、施しで暮らしながら説教と学問に生きる修道会である。名門の家族にとって、それは乞食になるのと同じだった。母は激怒し、パリへ向かう途中のトマスを兄たちに捕らえさせ、城に1年ほど閉じ込めた。兄たちは彼の決心を挫くため、部屋に娼婦を送り込んだが、トマスは暖炉から燃えさしを取って追い払った、と伝記は伝えている。家族はついに折れ、トマスは修道会に戻った。

パリを経てケルンに移ったトマスは、当代随一の学者アルベルトゥス・マグヌスに学んだ。大柄で無口なトマスを、仲間の学生たちは「シチリアの黙った牛」とからかった。だがある日、トマスの答えを聞いたアルベルトゥスは、我々は彼を黙った牛と呼んでいるが、この牛の鳴き声はいつか世界中に響き渡るだろう、と言ったという。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

1252年、トマスはパリに戻って教え始め、1256年に神学の教授となった。当時のパリ大学(パリ大学の成立)では、在来の教師たちが托鉢修道会の進出に反発し、激しい争いが起きていた。トマスは修道会の立場を擁護する論陣を張った。その後イタリアに戻り、オルヴィエートやローマで教えながら、イスラームやユダヤの思想家と議論する宣教師を念頭に置いた『対異教徒大全』を書き上げた。オルヴィエートでは、教皇の命でキリストの聖体の祝日のための典礼を作ったとされ、その中の賛歌は今も歌われている。

1265年ごろ、ローマで神学を学ぶ初心者のための教科書として書き始めたのが『神学大全』(トマス・アクィナス『神学大全』)である。神、人間、キリストの三部から成り、問いを立て、反対の意見をまず並べ、権威ある言葉を引き、自らの答えを示し、最後に反対意見の一つひとつに応える。この形式で、500あまりの問いと2600あまりの項目が論じられている。神は存在するか、という問いには、運動、原因、偶然と必然、完全さの段階、自然の秩序という五つの道から答えた。

トマス・アクィナス『神学大全』に関わる図版:SummaTheologiae
トマス・アクィナス『神学大全』Wikimedia Commons Public domain

トマスの仕事の核心は、アリストテレスの哲学とキリスト教の信仰を一つにまとめることだった。アリストテレスの著作は、その頃イスラーム世界を経てラテン語に訳され、ヨーロッパの大学に流れ込んでいた。トマスはそれを、イブン・スィーナーやイブン・ルシュドといったイスラームの哲学者、ユダヤのマイモニデスの注釈とともに読み、彼らを対話の相手として引用した。理性によって分かることと、啓示によってしか知りえないことを区別しながら、両者は矛盾しないと考えた。恩寵は自然を破壊せず、完成させる、という彼の言葉はその考えをよく表している。彼の自然法の考えは、のちの国際法や人権の思想にも影響を与えた。

1268年、トマスは再びパリに呼ばれた。そこでは、アリストテレスをイブン・ルシュドの解釈どおりに読み、信仰と食い違う結論も哲学としては正しいとするシゲルスらが力を持っていた。トマスは彼らに反論する一方、アリストテレスを危険視する保守的な神学者たちとも戦った。書く速さは驚くべきもので、何人もの書記に別々の著作を同時に口述したと伝えられる。フランス王ルイ9世の宴に招かれたとき、考えごとにふけっていたトマスが突然食卓を叩き、これでマニ教徒への反論が決まった、と叫んだという話もある。

モンテ・サン・ジョヴァンニ・カンパーノ城
モンテ・サン・ジョヴァンニ・カンパーノ城Wikimedia Commons Io · CC BY 3.0

1272年、ナポリに戻って修道会の学院を開いた。1273年12月6日、ミサの最中に何かを体験したトマスは、それ以後一行も書かなくなった。続きを書くよう促す秘書に、私が見たものに比べれば、これまで書いたものはすべて藁のように思える、と答えたという。『神学大全』は未完のまま残された。翌1274年、教皇の命でリヨンの公会議に向かう途中、トマスは体調を崩し、フォッサノーヴァの修道院で3月7日に死んだ。49歳ほどだった。ナポリ王シャルル・ダンジューに毒を盛られたという噂が流れ、ダンテ・アリギエーリも『神曲』煉獄篇でこれに触れているが、根拠はない。

死後まもなく、1277年にパリの司教が219の命題を断罪したとき、その中にはトマスの説も含まれていた。だが1323年、トマスは聖人に列せられ、1567年には教会博士とされた。1879年、教皇レオ13世がトマスの哲学をカトリックの教育の基礎とするよう求めて以来、その思想は「トミズム」として近代にも受け継がれ、20世紀にはマリタンやジルソンらがその現代的な意味を論じた。天使についても多くを論じたことから「天使博士」と呼ばれる。ただし、針の先で天使が何人踊れるか、という有名な問いは、彼の著作には出てこない。

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