『韓非子』

概要
法・術・勢で君主が国を保つ道を説いた。始皇帝が感嘆し、そして著者を獄死させた。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
韓非BC280年頃–BC233年 · 著者本文
戦国時代の末、韓非は七つの国のうちでもっとも小さく弱い韓の国に、王族の一人として生まれた。『史記』によれば、生まれつき言葉がつかえ、議論は苦手だったが、文章にすぐれていた。若いころ、儒学者の荀子のもとで学んだ。同門には、のちに秦の丞相となる李斯がいた。李斯は、自分は韓非に及ばないと思っていたという。
韓非は、強国の秦に削られていく祖国を憂え、たびたび王に意見書を出したが、用いられなかった。そこで、国が滅びる理由と、国を保つ方法を書き連ねた。それが『韓非子』で、いまに伝わるものは55篇ある。すべてが韓非自身の手になるものかについては議論があり、後の学派の者が書き加えた篇も含まれているとみられる。
その出発点は、人は利によって動くという冷めた人間観である。韓非は、医者が患者の傷の膿を口で吸うのは肉親だからではなく利益のためであり、車を作る職人が人々の富を願い、棺を作る職人が人の死を願うのも、心が善いか悪いかではなく商売の都合だ、と書く。親子の間でさえ、利害の計算から逃れられないとまで論じた。師の荀子は、人の本性は悪であり、だから礼による教化が要ると説いた。韓非は、教化は当てにならず、法と賞罰によって人を動かすしかないと考えた。
韓非が君主に求めたのは三つのものだった。一つは「法」で、誰にでも分かるように明文化し、身分に関係なく厳格に当てはめる決まりである。二つ目は「術」で、臣下に本心を見せず、言葉と実績が合っているかを照らし合わせて賞罰を下し、臣下を操る技術である。三つ目は「勢」で、君主という地位そのものが持つ力をいう。秦で改革を進めた商鞅の法、申不害の術、慎到の勢という先人たちの説を、一つにまとめ上げたものとされる。

『韓非子』は、思想書であると同時に、たとえ話の宝庫でもある。切り株に兎がぶつかって死んだのを見た農夫が、仕事をやめて切り株を見張り続けた「守株」の話は、昔のやり方にしがみつく儒者を笑うためのものだった。どんな盾も突き通す矛と、どんな矛も防ぐ盾を売る商人の話は「矛盾」の語源になった。竜の喉の下には逆さに生えた鱗があり、それに触れた者は必ず殺される、君主にも逆鱗がある、と説いた話もある。説得の難しさを論じた「説難」の篇は、相手の心を読み違えれば命を落とす説客の危うさを、細かく分析している。
秦王の政、のちの始皇帝は、韓非の書いた「孤憤」や「五蠹」を読み、この人に会って共に語れるなら死んでも悔いはない、と言ったと『史記』は伝える。紀元前234年ごろ、秦が韓を攻めると、韓は韓非を使者として秦に送った。秦王は喜んだが、すぐには信用して用いなかった。李斯と姚賈は、韓非は結局は韓のために動く者で、用いずに帰せば後の災いになる、と讒言した。韓非は獄に下され、李斯が毒薬を届けて自殺を迫った。韓非は秦王に弁明しようとしたが、会うことはできなかった。秦王は後に悔いて赦しを出したが、韓非はすでに死んでいたという。紀元前233年のことである。

説得の危うさを誰よりも鋭く論じた人物が、説得の場に立つことすらできずに死んだことになる。司馬遷は『史記』で、韓非が「説難」を書きながら、自分は災いを逃れられなかったことを悲しんでいる。
李斯がなぜ同門の韓非を除こうとしたのかについては、才能をねたんだからだと『史記』は書く。一方で、韓非が秦に対して祖国の韓を攻めないよう説いていたことも伝えられており、韓の王族として秦にとって危うい存在だったのは確かだった。韓非の死の3年後、紀元前230年に、韓は六国のうち最初に秦に滅ぼされた。
韓非の死から12年後、秦は天下を統一した(秦の中国統一)。李斯は丞相として法による統治を進め、思想の統制にまで踏み込んだ(焚書坑儒)。しかし秦は15年で倒れ、漢の時代以後、法家の名は暴政と結びつけて語られるようになる。それでも、法と賞罰によって官僚を動かす仕組みそのものは、歴代の王朝に引き継がれた。表向きは儒学を掲げ、内実は法家の技術で治める、と後世に評される中国の政治の形の一方の源が、この書物にある。