ヒポクラテス集典と医の誓い
概要
エーゲ海の島コスの医師たちが残した60編ほどの文書の束。一人の著者のものではない。病は神の罰でも祟りでもなく、自然の原因を持つ、と書いた(『神聖病について』は、てんかんを神の病と呼ぶのは無知の言い訳だと言う)。観察と記録を重んじ、患者ごとの経過を書き留めた。「誓い」は、害をなさないこと、毒を与えないこと、患者の秘密を守ることを誓わせる。医が職業倫理を持つという考えが、ここから来る。
場所
36.89°N 27.29°E · ギリシア
関わった人(1)
ヒッポクラテスBC460年頃–BC370年頃 · 名を残した本文
コス島は、エーゲ海の東、いまのトルコの海岸のすぐ沖に浮かぶ島である。古代ギリシアの時代、この島には医術を家業として受け継ぐ一族が住んでいた。彼らは医の神アスクレピオスの子孫を名乗り、「アスクレピアダイ」と呼ばれた。医術は親から子へ、師から弟子へ伝えられる技だった。のちに島には、アスクレピオスを祀る大きな聖域も築かれる。
この一族から出たのがヒッポクラテス(前460年頃〜前370年頃)である。後世には「医学の父」と呼ばれるが、その生涯について確かなことはほとんど分かっていない。最も古く確かな証言は、同時代を生きたプラトンの対話篇にある。『プロタゴラス』は、コスのヒポクラテスを、報酬を受けて医術を教える人として名を挙げる。『パイドロス』は、全体の自然を知らずに身体の自然を知ることはできない、という彼の考えを紹介している。少し後のアリストテレスも、偉大な医師の例として彼の名を出している。伝記の多くは、何百年も後に書かれたもので、伝説が混じる。

「ヒポクラテス集典」と呼ばれるのは、彼の名の下に伝わった六十編ほどの医学の文書の束である。多くは前五世紀の後半から前四世紀にかけて書かれ、なかにはずっと後の時代のものも含まれる。文体も、立場も、質もばらばらで、互いに矛盾する主張さえある。一人の著者が書いたものではありえない。おそらく、前三世紀のアレクサンドリアの図書館に集められた医学の文書が、最も名高い医師の名の下にまとめられたものと考えられている。どの一編がヒポクラテス本人の手になるのかは、古代から議論されてきて、いまも決着していない。
それでも、この文書群には共通した態度がある。病を、神の怒りや悪霊の仕業ではなく、自然の原因から起きるものとして扱うことである。その態度を最もはっきり示すのが、『神聖病について』という一編だ。神聖病とは、てんかんのことである。突然倒れて痙攣する発作は、神が取り憑いたしるしと考えられ、祈祷師や呪術師が、清めや呪文で治すと称していた。

この一編は、それを正面から否定する。この病がほかの病よりも神的だとは思われない。人々がこれを神的と呼ぶのは、原因が分からないからにすぎない。ほかの病と同じく、この病にも自然の原因がある、と。そして筆者は、原因は脳にあると書いた。当時のギリシアでは、思考や感情の座は心臓にあると考える者も多かった。喜びも、笑いも、悲しみも、痛みも、人は脳によって感じるのだ、という一節は、驚くほど現代に近い。医術はここで、祈祷や祓いから自分を切り離した。
方法にも特徴があった。患者をよく見て、記録することである。『流行病』と題された文書の第一巻と第三巻には、四十二人の患者の経過が書き留められている。どこに住む誰が、いつ発熱し、何日目に汗をかき、何日目にうわごとを言い、何日目に回復したか、あるいは死んだか。記録された患者の半分以上は死んでいる。治った例だけを選んで書いたのではない。だからこそ、これは宣伝ではなく、観察の記録として読める。

『空気、水、場所について』は、病と土地の関係を論じた。町に来た医師は、まずその土地の風向き、水の質、日当たり、季節の移り変わりを調べよ、と説く。同じ病でも、土地と暮らしによって現れ方が違うからである。病を体の中だけでなく、環境との関わりで見るこの考え方は、のちの公衆衛生の先駆けとも言われる。
『予後』は、医師の大事な務めとして、病の先行きを言い当てることを挙げる。これから何が起こるかを正しく告げられる医師は、患者と家族に信頼される。治せない病を治せると言ってはならない、とも説く。『箴言』の冒頭の一句、生は短く、術は長い、機は逸しやすく、経験は欺きやすく、判断は難しい、はよく知られている。ラテン語の訳で広まったが、もとの意味は「芸術は長く残る」ではなく、医術を身につけるには人の一生では足りないほど長い時間がかかる、ということである。

集典のなかで最も長く影響を残した理論は、四つの体液の説だった。『人間の自然性について』は、人の体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四つの液があり、その釣り合いが取れていれば健康、崩れれば病になると説いた。アリストテレスはこの一編を、ヒポクラテスの娘婿ポリュボスの作として引いている。この説は誤りだったが、驚くほど長く生き延びた。ローマ時代のガレノスがそれを壮大な体系にまとめ(ガレノスの医学)、イスラーム世界の医師たちが受け継ぎ、ヨーロッパでは十九世紀まで、血を抜く瀉血や下剤の治療を正当化し続けた。
そして集典の中で、いまも最もよく知られているのが『誓い』である。医師の一門に入るとき、あるいは師のもとで医術を学び始めるときに立てた誓いの文と考えられている。冒頭で、アポロン、アスクレピオス、癒しの女神たちの名にかけて誓う。
誓いの中身は具体的である。医術を教えてくれた師を親と同じように敬い、その子には報酬なしで医術を教える。患者の利益のためにだけ養生の処方をし、害や不正のためには用いない。求められても、死をもたらす薬を与えない。女性に堕胎のための道具を与えない。結石を切る手術はせず、それを業とする者に任せる。患者の家に入るときは、相手が男でも女でも、自由人でも奴隷でも、不正や情交をしない。そして、治療のあいだに見聞きしたことも、治療の外で人の暮らしについて耳にしたことも、口外すべきでないことは秘密として守る。医師の守秘の義務が、ここにはっきりと書かれている。
この誓いがいつ、誰によって作られたのかは分かっていない。古代のギリシアで、すべての医師がこの誓いを立てたわけでもない。堕胎や自殺の助けを禁じる厳しさは当時のギリシアの一般の考え方とは合わず、ピュタゴラス派の教えの影響を受けた一部の集団のものだったのではないか、という説もある。よく引かれる「まず害をなすな」という言葉も、実は『誓い』の文言ではない。『流行病』にある、益をなせ、少なくとも害をなすな、という一節が、のちにラテン語の格言として形を整えられたものである。
いま、この誓いをそのまま使う医学校はほとんどない。神々への呼びかけや、外科を禁じる条項、安楽死と中絶をめぐる条項が、現代の医療と合わないからである。第二次世界大戦の後、ナチス・ドイツの医師たちが行った人体実験が裁かれ(ニュルンベルク綱領)、1948年に世界医師会が「ジュネーヴ宣言」を定めた。各国の医学校の多くは、これや独自の現代版の誓いを用いている。それでも、医師は患者の利益のために働き、害をなさず、秘密を守るという、医師だけが負う固有の倫理があるという考えそのものは、二千四百年前のこの文書にさかのぼる。