人物

ボエティウス

Boethius
AD480年頃 – AD524年(享年44・推定)
東ゴート王国重要度 5

概要

ローマの貴族。執政官。テオドリックの下で「官職の長」。アリストテレスの論理学をラテン語に訳した。中世が知るアリストテレスは、彼の訳だけ。反逆の疑いでパヴィアの獄。『哲学の慰め』。棍棒で殺された。「最後のローマ人、最初のスコラ学者」。

所属

東ゴート王国

関わったできごと(1)

ボエティウス『哲学の慰め』AD524年 · 著者

本文

ボエティウスの名は、アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウスという。480年ごろ、ローマの元老院の貴族の家に生まれた。アニキウス家は、ローマで最も古く、最も富んだ名門の一つに数えられていた。このころ西ローマ帝国はすでに滅び、イタリアはゲルマン人の王たちの支配の下にあったが、ローマの元老院とその貴族たちは、古い家柄と教養を誇りに、なお官職を担っていた。父は487年に執政官を務めたが、ボエティウスが幼いうちに亡くなり、彼は元老院の重鎮シュンマクスに引き取られて育てられた。のちにシュンマクスの娘ルスティキアナと結婚している。

ボエティウス『哲学の慰め』写本の飾り文字
ボエティウス『哲学の慰め』写本の飾り文字Wikimedia Commons Public domain

この時代の西方では、ギリシア語を読める人はすでに少なくなっていた。だがボエティウスはギリシア語に通じ、ギリシアの哲学と学問を深く学んだ。どこで学んだのかは分かっていない。アテナイかアレクサンドリアに留学したという説もあるが、確かではない。彼が若くして立てた志は壮大だった。アリストテレスとプラトンのすべての著作をラテン語に訳して注釈を付け、二人の哲学が根本では一致していることを示す、というのである。

その計画は完成しなかったが、彼が成し遂げた部分だけでも、後のヨーロッパにとって計り知れない意味を持った。彼は、アリストテレスの論理学の書『範疇論』と『命題論』、さらにアリストテレスの論理学への入門として書かれたポルフュリオスの『イサゴーゲー』をラテン語に訳し、詳しい注釈を付けた。ほかの論理学の書も訳したが、その訳はのちに長く忘れられた。12世紀に新しい翻訳が入ってくるまで、西ヨーロッパの学者たちがアリストテレスの論理学に触れる道は、ほとんど彼の訳と注釈だけだった。『イサゴーゲー』の注釈で、ボエティウスは、「類」や「種」といった普遍が、心の外に実在するのか、それとも心の中の概念にすぎないのか、という問いを紹介し、答えを出さずに残した。この問いが、中世の普遍論争の出発点になる(その論争の中心に立った一人がピエール・アベラールである)。

ボエティウスの肖像
ボエティウスの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼は数学と音楽の教科書も書いた。算術、幾何、天文、音楽の四つの学問を、彼は「四つの道(クァドリウィウム)」と呼んだとされ、この名は中世の大学の基礎の教養の名として残った。『音楽教程』では、天体の運行が奏でる宇宙の音楽、人の魂と体の調和である人間の音楽、楽器が奏でる音楽の三つを区別し、ピュタゴラス以来の数の比による音階の理論を伝えた。この書は、中世のヨーロッパで音楽の理論を学ぶ基本の教科書であり続けた。神学の小さな論文も残し、そこで示した「ペルソナとは理性的な本性を持つ個別の実体である」という定義は、のちの神学者たちに繰り返し引かれた。

学問だけの人ではなかった。イタリアを治めていたのは、東ゴート族の王テオドリック(テオドリック大王)だった(テオドリックのイタリア王国)。テオドリックは、ゴート人の軍事とローマ人の行政を分け、ローマの元老院の貴族たちを重く用いた。ボエティウスは510年、30歳ほどで執政官に就いた。522年には、まだ若い二人の息子が、そろって同じ年の執政官に任じられた。息子たちが元老院から王の前へ進むのを見届け、王を称える演説をしたこの日を、彼は生涯で最も幸せな日として振り返っている。同じ年、彼は宮廷の官房と行政を束ねる官職の長に任じられ、王の側近の最高位に昇った。

ボエティウスの父ナリウス・マンリウス・ボエティウスを描いた執政官双連板
ボエティウスの父ナリウス・マンリウス・ボエティウスを描いた執政官双連板Wikimedia Commons Boethius and H. R. James · Public domain

だが、その座は危うかった。テオドリックはキリスト教のアリウス派を信じ、ローマの貴族たちはカトリックだった。コンスタンティノープルの東ローマ皇帝とローマ教会が和解すると、王は、元老院の貴族たちが東の皇帝と通じて自分を裏切るのではないかと疑うようになった。523年、元老院議員アルビヌスが、東の皇帝に反逆の手紙を送ったとして告発された。ボエティウスは王の前で彼を弁護し、アルビヌスが有罪なら、自分も元老院全体も有罪だと言い放った。告発の矛先は彼自身に向けられた。反逆の手紙は偽造されたものだったと彼は主張したが、さらに魔術を用いたという罪まで着せられた。元老院は彼を見捨て、彼はローマから遠いパヴィアの近くに囚われた。

獄中で、死を待ちながら、彼は『哲学の慰め』を書いた(ボエティウス『哲学の慰め』)。散文と詩を織り交ぜた5巻の対話で、絶望する囚人のもとに、哲学が気高い女性の姿で現れ、彼を諭していく。運命の女神は車輪を回し、人を持ち上げては落とす、それが彼女の本性なのだから、運命に与えられたものを失って嘆くのは筋違いだ。本当の幸福は、移ろう富や名誉ではなく、善そのものである神にある。悪人の力は見かけにすぎない。そして、神がすべてを前もって知っているなら人間の自由な意志はどうなるのかという難問に対しては、永遠の神は過去も未来もすべてを一つの現在として見ているのだと答える。驚くことに、この書にはキリストの名も聖書の言葉も一度も出てこない。キリスト教徒でありながら、彼は最期に古代の哲学の言葉で自分を慰めたのである。

ボエティウス『哲学の慰め』に関わる図版:Boethius, Consolatio philosophiae (French)
ボエティウス『哲学の慰め』Wikimedia Commons Boethius · Public domain

524年ごろ、ボエティウスは処刑された。伝えるところでは、頭に縄を巻いて締め上げられ、最後は棍棒で打ち殺されたという。義父のシュンマクスも、まもなく反逆の罪で殺された。テオドリック自身も526年に亡くなった。6世紀の歴史家プロコピオスは、晩年の王が食卓に出された大きな魚の頭を、殺したシュンマクスの顔と見て恐れおののき、まもなく死んだという話を書き残している。

ボエティウスは、パヴィアの教会に葬られ、カトリックを守るために殉教した聖人として、その地で聖セウェリヌスの名で崇められるようになった。19世紀の末には、教皇庁がその崇敬を正式に認めている。『哲学の慰め』は、中世のヨーロッパで聖書に次いで最もよく読まれた本の一つになった。9世紀のイングランドではアルフレッド大王(アルフレッド大王)が古英語に訳し、14世紀にはチョーサー(ジェフリー・チョーサー)が中英語に訳し、16世紀にはエリザベス1世までが自ら英語に訳した。ダンテ(ダンテ・アリギエーリ)は『神曲』の天国篇で、太陽の天に輝く賢者たちの中に彼を置いた。古代ローマの学問を中世へ手渡した彼は、しばしば「最後のローマ人、最初のスコラ学者」と呼ばれる。

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