できごと

ベンガル・ルネサンス

Bengal Renaissance
1800年 – 1920年
期間を持つできごと重要度 3
ベンガル・ルネサンスに関わる図版:Royal Peacock Barge LACMA M.82.154
Royal Peacock Barge LACMA M.82.154 Wikimedia Commons Public domain

概要

英国支配下のベンガルで、社会改革と文学が同時に興った。タゴールがアジア初のノーベル賞を受ける。

場所

コルカタ
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州

本文

1757年のプラッシーの戦いで勝ったイギリス東インド会社は、ベンガル地方の実権を握り、やがてインドの大半を支配していく。その本拠となったのが、ガンジス川の分流フーグリ川に面した港町カルカッタ(いまのコルカタ)だった。1911年に都がデリーへ移るまで、カルカッタは英領インドの首都であり、役所と商館と学校が集まる、アジアでも指折りの大都市になった。

この町で、イギリスの役所や商館と取引して財をなし、英語を学んだベンガル人の新しい中間層が育った。「バドロロク(紳士たち)」と呼ばれる人々である。彼らは西洋の科学や思想、文学に触れる一方で、自分たちの社会の古い慣習にも目を向け始めた。19世紀のはじめから20世紀のはじめにかけて、カルカッタを中心に、宗教と社会の改革、教育、文学、科学、芸術が一斉に花開いた。この動きを、のちに人々はヨーロッパになぞらえて「ベンガル・ルネサンス」と呼んだ。

ラーダーカーンタ・デーブの肖像画
ラーダーカーンタ・デーブの肖像画Wikimedia Commons Unknown · Public domain

先頭に立ったのがラーム・モーハン・ローイである。ベンガルのバラモンの家に生まれ、ペルシア語、アラビア語、サンスクリット語、英語を身につけ、東インド会社に勤めたあと、カルカッタで言論活動に入った。彼が力を注いだのが、夫を亡くした妻が夫の亡骸とともに火葬の薪の上で焼かれる「サティー」の廃止だった。兄の妻がそうして死ぬのを目の当たりにしたことが、きっかけだったと伝えられる。ローイは古いヒンドゥーの法典を自ら読み直し、サティーは経典が求める義務ではないと論じて、パンフレットを書き、請願を集めた。1829年、総督ベンティンクはベンガルでサティーを禁じた。ローイはまた、偶像崇拝を退けてただ一つの神を崇める団体を作り、これがのちのブラーフモ・サマージになる。

改革はさらに続いた。サンスクリット学者のヴィディヤーサーガルは、夫を亡くした女性の再婚を認めるよう経典を根拠に訴え、1856年に寡婦の再婚を認める法律が作られた。彼はベンガル語の読み方の入門書も書き、それは今も子どもたちに読まれている。女子のための学校も開かれた。若い教師デロジオに影響を受けた学生たちは、カーストの決まりや古い慣習を公然と批判し、牛肉を食べてみせるなど、過激な行動で世間を驚かせた。

ジャガディッシュ・チャンドラ・ボースの肖像
ジャガディッシュ・チャンドラ・ボースの肖像Wikimedia Commons The Birth Centenary Committee, printed by P.C. Ray · Public domain

文学では、ベンガル語が近代の文学の言葉として磨かれていった。マイケル・モドゥスドン・ドットは西洋の詩の形をベンガル語の叙事詩に取り入れ、バンキムチャンドラ・チャタージーは歴史小説を書いた。彼の小説の中の歌「ヴァンデー・マータラム(母なる大地を讃える)」は、のちにインド独立運動の合言葉になる。宗教の世界では、ラーマクリシュナの弟子ヴィヴェーカーナンダが1893年にシカゴの世界宗教会議で演説して、ヒンドゥーの思想を西洋に紹介した。科学では、ジャガディシュ・チャンドラ・ボースが電波や植物の反応を研究し、のちにはサティエンドラ・ナート・ボースが、アインシュタインとともに名を残す粒子の統計の理論を発表している。

この流れの頂点に立つのがラビンドラナート・タゴールである。カルカッタの裕福な名家に生まれ、詩、小説、戯曲、歌、絵画と、あらゆる分野で作品を残した。1912年、自分のベンガル語の詩を自ら英語に訳した詩集『ギーターンジャリ』がロンドンで出版され、詩人イェイツらに絶賛された。翌1913年、タゴールはヨーロッパ以外の人として初めてノーベル賞(文学賞)を受けた。1915年にはイギリスからナイトの称号を受けたが、1919年にパンジャーブのアムリトサルで集会中の群衆にイギリス軍が発砲し、数百人が死ぬ事件が起きると(アムリトサル虐殺)、抗議の手紙を総督に送って称号を返上した。ベンガルの田園シャンティニケタンには、自然の中で学ぶ学校を開き、それはのちに大学になった。

ラビンドラナート・タゴール(1909年)
ラビンドラナート・タゴール(1909年)Wikimedia Commons Generalstabens litografiska anstalt · Public domain

一方で、この「ルネサンス」は、カルカッタのヒンドゥーの上層の人々が中心で、ベンガルの人口の多くを占めたムスリムや農民はほとんど加わっていなかった、という批判もある。1905年、イギリスがベンガルを東西に分けようとしたとき(ベンガル分割)、ベンガルの人々は宗教を越えて強く反対したが、その分断の線は、のちのインドとパキスタン、そしてバングラデシュの分離につながっていく。

それでも、タゴールの歌は国境を越えて残った。インドの国歌「ジャナ・ガナ・マナ」も、バングラデシュの国歌「わが黄金のベンガル」も、タゴールが詞を書いたものである。国境で隔てられた二つの国が、同じ一人の詩人の歌を国の歌にしている。

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