概要
ヴァーラーナシー。ムスリムの織工の家で育った(捨て子だった、と伝える)。師はヒンドゥーの聖者ラーマーナンダ。生涯、機を織り続けた。詩は書かず、ヒンディーの俗語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。寺院の像も、モスクの呼びかけも、巡礼も、断食も、カーストも、批判した。死んだとき、ヒンドゥーとムスリムが遺体の扱いで争い、布をめくると花だけがあった、という伝説。彼の詩は『グル・グラント・サーヒブ』に500篇以上、収められている。
関わったできごと(2)
バクティ運動AD700年 · 歌ったカビールの詩AD15世紀 · 歌った本文
ヴァーラーナシー。生年は1398年から1448年まで諸説。ムスリムの織工(ジュラーハー。ヒンドゥーから改宗した低いカーストの職人層)の家で育った。伝承では、バラモンの寡婦が産んで川に捨て、織工のニールーとニーマーの夫婦が拾った。
師。ヒンドゥーの聖者ラーマーナンダ(バクティの詩人。カーストを問わず弟子を取った)。伝承では、ラーマーナンダはムスリムの子を弟子にすることを拒んだ。カビールは、師が毎朝、暗いうちにガンガーへ下りる石段に、寝ころんで待った。師が踏んで、驚いて「ラーム、ラーム」と叫んだ。カビールは「私はいま、あなたから真言を授かった」と言って、立ち上がった。
生涯、機を織った。出家しなかった。妻ロイと、息子カマールと娘カマーリーがいた、と伝える。
詩。書いていない。歌った。弟子が覚え、後の世代が集めた。三つの系統に伝わる。『ビージャク』(カビール・パンティー=彼を祖とする教団のもの)、『グル・グラント・サーヒブ』(シク教の聖典。500篇以上)、そして『ラージャスターンの写本』。言葉は、ヒンディー語の俗語(サドゥクリー・バーシャー=聖者たちの言葉。ブラジ、アワディー、パンジャービーが混ざる)。
内容。
「私はヒンドゥーでもムスリムでもない。……私は、あなたの中に住む者だ」。
寺院と、モスクへの批判。「もし神がモスクの中にいるなら、残りの土地は誰のものだ。……もし神が像の中にいるなら、なぜ像は何も言わない」。
「バラモンよ、あなたが他の者より高いと言うなら、なぜ別の道から生まれてこなかったのか。……我々は同じ血と、同じ骨でできている」。
巡礼と断食への批判。「メッカへ行き、ガンガーで沐浴して、心が変わらないなら、何になる。石を拝むなら、私は石臼を拝む。少なくとも、それは粉を挽く」。
死について。「私は、生きている間に死んだ。……人が死ぬのを見て、皆が泣く。私は笑う。もう一度、生まれなければならないから」。
同時に、彼は徹底した否定の人ではなかった。「ラーム」と呼びかけ続けた。ただし、そのラームは、叙事詩の英雄でも、像でもなく、名前を超えたもの。
「愛(プレーム)」。「本を読んで、誰も学者にならなかった。愛(プレーム)の二文字半を読んだ者が、学者になる」。(ヒンディー語で「प्रेम」は、文字を数えると二文字半になる。)
「見つけようとして探した。見つけた者は、消えた。……水の中の塩のように」。
死。1518年頃、マガハル(ヴァーラーナシーの北東の町)で。伝説では、彼は死ぬ場所としてマガハルを選んだ。ヴァーラーナシーで死ねば解脱するという通念を、否定するために。「カーシーで死ねばラームに会えるというなら、私はマガハルで死のう。それでもラームに会えることを見せるために」。
そして。ヒンドゥーの弟子は火葬を、ムスリムの弟子は土葬を望んだ。争っていると、遺体を覆う布が揺れた。めくると、そこには花だけがあった。彼らは花を半分ずつ分けて、一方は焼き、一方は埋めた。マガハルには、隣り合って、墓と、廟が立っている。
その後。カビール・パンティー(彼を祖とする教団。いまも数百万人)。シク教の聖典への収録。タゴールが1915年に英訳(『カビールの百詩篇』)して、西洋に紹介した。