人物

カビール

Kabir
AD1440年頃 – AD1518年頃(享年78・推定)
インド重要度 4

概要

ヴァーラーナシー。ムスリムの織工の家で育った(捨て子だった、と伝える)。師はヒンドゥーの聖者ラーマーナンダ。生涯、機を織り続けた。詩は書かず、ヒンディーの俗語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。寺院の像も、モスクの呼びかけも、巡礼も、断食も、カーストも、批判した。死んだとき、ヒンドゥーとムスリムが遺体の扱いで争い、布をめくると花だけがあった、という伝説。彼の詩は『グル・グラント・サーヒブ』に500篇以上、収められている。

関わったできごと(2)

バクティ運動AD700年 · 歌ったカビールの詩AD15世紀 · 歌った

本文

カビールは15世紀、北インドの聖地ヴァーラーナシー(カーシー)に生きた詩人である。生没年ははっきりせず、伝承では1398年に生まれて1518年に死んだとされ、120年生きたことになる。研究者の多くは、15世紀半ばから16世紀初めにかけての人と見ている。

カビール、弟子とともに(1825年画)
カビール、弟子とともに(1825年画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼はジュラーハーと呼ばれる織工の家で育った。ジュラーハーは、もとは低い身分に置かれた機織りの職人の集団で、少し前の世代にイスラームに改宗した人々だった。伝承によれば、彼はバラモンの寡婦が産んで捨てた子で、ムスリムの織工ニールーとその妻ニーマーが池のほとりで見つけて育てたという。どちらの宗教の子でもあり、どちらでもない、という後の彼の詩にふさわしい物語だが、史実かどうかは分からない。

師は、ヒンドゥーの聖者ラーマーナンダだったと伝えられる。神への愛と献身を説くバクティの運動(バクティ運動)の指導者で、身分を問わず弟子を取ったとされる。有名な伝説がある。ラーマーナンダがムスリムの子を弟子にすることを拒んだので、カビールは師が夜明け前にガンガーの川岸へ沐浴に下りる石段に横たわって待った。暗がりで彼の体を踏んだ師は、驚いて「ラーム、ラーム」と叫んだ。カビールは、いま師の口から神の名を授かった、と言って弟子になったという。年代の上で二人が出会えたかを疑う研究者もいる。

バクティ運動に関わる図版:Meerabai (crop)
バクティ運動Wikimedia Commons Raja Ravi Varma · Public domain

彼は出家しなかった。生涯、ヴァーラーナシーで機を織り、布を売って暮らした。妻と息子、娘がいたと伝わる。詩は書かなかった。読み書きができたかどうかも分からない。彼は織りながら、また人々の前で、詩を歌った。弟子たちが覚えて歌い継ぎ、後の世代が書き留めた。言葉は文語のサンスクリットでも、宮廷のペルシア語でもなく、北インドの民衆が話す俗語で、各地の方言が混ざり合っている。

詩は大きく三つの系統で伝わる。彼を祖と仰ぐ教団カビール・パンティが伝えた『ビージャク』、ラージャスターンの宗派が伝えた詩集、そしてシク教の聖典『グル・グラント・サーヒブ』である。シク教の聖典には、開祖グル・ナーナクをはじめとするグルたちの詩と並んで、カビールの作とされる詩が数百篇収められている。ただし、どの詩が本当に彼の作なのかを見分けることは難しく、後の人が彼の名で作った詩も多く混じっていると考えられている。

Vishnu
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼の詩は、宗教の垣根を容赦なく突く。ヒンドゥーは寺院の像を拝み、ムスリムはモスクで祈るが、神はどこか一つの建物に住んでいるのか。ヒンドゥーは「ラーム」と呼び、ムスリムは「ラヒーム」と呼んで争うが、呼び名が違うだけではないのか。聖地への巡礼も、川での沐浴も、断食も、心が変わらなければ何の役にも立たない。石の像を拝むくらいなら、粉を挽いてくれる石臼を拝むほうがましだ。生まれによって人の上下を決めるカーストに対しても、バラモンも同じ血と骨でできているではないか、と問いかけた。

ただ、彼は神を否定したのではなかった。彼が呼びかけ続けた「ラーム」は、叙事詩の英雄としての神でも、寺院の像でもなく、名も形も超えて、人の内に宿るものだった。それを見いだす道は、儀式でも学問でもなく、愛だった。分厚い書物を読んで学者になった者はいない、愛という短い一語を読んだ者が学者になる、という意味の二行詩は、インドでいまも広く口ずさまれている。

カビールとナームデーヴ、ライダース、ピパージー(ジャイプール、19世紀初頭、インド国立博物館)
カビールとナームデーヴ、ライダース、ピパージー(ジャイプール、19世紀初頭、インド国立博物館)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

死にも伝説がある。ヴァーラーナシーで死ねば解脱できる、という信仰が当時もあった。カビールは晩年、あえてヴァーラーナシーを離れ、死ねばロバに生まれ変わると言われていたマガハルの町に移って死んだという。死に場所で救いが決まるという考えを、身をもって否定するためだった。彼が死ぬと、ヒンドゥーの弟子は火葬を、ムスリムの弟子は土葬を望んで争った。ところが遺体を覆う布をめくると、そこには花だけが残っていた。弟子たちは花を分け、一方は焼き、一方は埋めた。マガハルには今も、ムスリムの墓とヒンドゥーの廟が隣り合って立っている。

彼の死の頃、北インドではパンジャーブでナーナクが教えを説き始めていた(グル・ナーナクとシク教の成立)。教団カビール・パンティは今もインド各地に信徒を持つ。20世紀の初め、詩人ラビンドラナート・タゴールがカビールの詩100篇を英訳して出版し、彼の名は欧米にも知られるようになった。その詩の世界についてはカビールの詩でも触れている。宗教どうしの争いがなお絶えない地で、ヒンドゥーにもムスリムにも自分たちの聖者として慕われてきた織工の歌は、500年を経ても歌われ続けている。

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