できごと

プランクの量子仮説

Planck's quantum hypothesis
AD1900年12月14日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国アルジェリアモロッコイタリアルーマニアアイスランドチュニジアブルガリアギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1900年12月14日ベルリン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1900年12月14日の版図を描いています(25勢力)。

概要

黒体放射のスペクトルを説明する式を作るために、プランクは「エネルギーはとびとびの値しか取れない」と仮定した。E=hν。h=6.626×10⁻³⁴。「絶望的な行為」と自分で言った。信じていなかった。5年後、アインシュタインが光そのものが粒だと言い、13年後、ボーアが原子に使い、25年後、量子力学になった。物理学会での発表の日が、量子論の誕生日。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

関わった人(1)

マックス・プランクAD1858年4月23日–AD1947年10月4日 · 発表した

本文

熱い物は光る。鉄を熱すると、暗い赤から明るい赤、黄色、そして白へと色が変わる。色は物の種類ではなく、温度で決まる。どんな光も吸い込む理想の物体、「黒体」が出す光の色の分布、つまりどの波長の光をどれだけ出すかは、温度だけで決まるはずだった。19世紀の終わり、この黒体放射の分布を理論で説明することは、物理学の大きな課題の一つになっていた。製鉄や電灯の産業にとっても、光と温度の関係を正確に知ることは重要だった。

ベルリンの帝国物理工学研究所では、精密な測定が進められていた。1896年、ヴィーンは短い波長の側でよく合う式を出したが、長い波長の側では測定とずれることが分かってきた。一方、1900年にイギリスのレイリーが古典的な理論から導いた式は、長い波長では合うものの、短い波長に行くほど放射が限りなく大きくなるという、ありえない答えを出した。のちに「紫外発散」などと呼ばれる難点である。

フーゴー・エルフルト撮影、マックス・プランクの肖像写真(1938年)
フーゴー・エルフルト撮影、マックス・プランクの肖像写真(1938年)Wikimedia Commons Hugo Erfurth · Public domain

マックス・プランクはベルリン大学の教授で、このとき42歳だった。熱力学の専門家で、慎重で保守的な学者として知られていた。1900年10月、実験家のルーベンスから最新の測定値を聞いたプランクは、ヴィーンの式と長い波長での振る舞いをつなぐ式を工夫して作り、10月19日、ドイツ物理学会で発表した。式は測定とぴったり合った。だが、なぜ合うのかは分からなかった。

それからの2か月を、プランクは式の根拠を探すことに費やした。手がかりにしたのは、ボルツマンの統計の考え方だった。プランクはもともと、原子の確率的な振る舞いで熱を説明するボルツマンの方法に懐疑的だった。それでも、ほかに道は無かった。物質の中で振動して光を出したり吸ったりするものを考え、その振動のエネルギーが、振動数に比例する小さな塊、「エネルギー要素」の整数倍しか取れないと仮定すると、測定と合う式が導けた。エネルギー要素の大きさは、振動数νに新しい定数hを掛けたもの、hνである。

1911年のソルベー会議にて。後列左から2番目がプランク
1911年のソルベー会議にて。後列左から2番目がプランクWikimedia Commons Benjamin Couprie · Public domain

1900年12月14日、プランクはドイツ物理学会でこの導き方を発表した。hの値は6.55×10のマイナス27乗エルグ秒と見積もられた。いまの単位で言えば、6.626×10のマイナス34乗ジュール秒にあたる。同じ論文で、プランクはボルツマン定数の値も求め、そこから原子1個の質量や電気素量の値まで計算してみせた。これらの値は、当時知られていた値よりも正確だった。

プランク自身は、エネルギーがとびとびであるという仮定を、計算の上の工夫だと考えていた。後年、知人への手紙で、あれは絶望からの行為だった、どんな犠牲を払っても理論的な説明を見つけなければならなかったのだ、と振り返っている。彼はその後も10年以上、とびとびのエネルギーを古典物理学の中に収める道を探し続けた。

この仮定を本気で受け取ったのは、若いアインシュタインだった。1905年、アインシュタインの奇跡の年と呼ばれる年に、アインシュタインは、光そのものがhνのエネルギーを持つ粒、「光量子」として振る舞うと考え、金属に光を当てると電子が飛び出す光電効果を説明した。プランクはアインシュタインの才能を早くから認めた一人だったが、光量子には懐疑的だった。1913年、アインシュタインをベルリンに招くための推薦書の中で、プランクらは、光量子仮説のように時に推測が行き過ぎることがあっても、それをあまり責めるべきではない、という趣旨を書いている。

アインシュタインの奇跡の年に関わる図版:Einstein patentoffice
アインシュタインの奇跡の年Wikimedia Commons Lucien Chavan [ 1 ] (1868 - 1942), a friend of Einstein's when he was living in Berne. · Public domain

同じ1913年、ニールス・ボーアはプランクの定数を原子の構造に持ち込み、電子が特定の軌道だけを回ると考えて、水素が出す光の色を説明した(ボーアの原子模型)。1924年にはド・ブロイが、電子のような物質も波の性質を持つと唱えた。1925年にヴェルナー・ハイゼンベルクが行列力学を、1926年にシュレーディンガーが波動方程式を発表し、1927年の不確定性原理を経て、量子力学という新しい物理学の体系ができあがった。プランクの小さな仮定は、四半世紀のうちに、原子から光までを説明する理論の土台になった。

プランクは1918年のノーベル物理学賞を受けた。その後はドイツの科学界の長老として、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長などを務めた。ナチスが政権を取ると、ユダヤ系の科学者を守ろうとヒトラーに面会したが、聞き入れられなかったと回想している。私生活は悲劇に見舞われた。長男は第一次世界大戦で戦死し、次男のエルヴィンは1944年のヒトラー暗殺未遂事件に関わった疑いで捕らえられ、1945年に処刑された。プランクは1947年に89歳で死んだ。カイザー・ヴィルヘルム協会は、戦後マックス・プランク協会と名を変えて再出発した。

ノーベル物理学賞を受賞した1918年のプランク
ノーベル物理学賞を受賞した1918年のプランクWikimedia Commons AB Lagrelius & Westphal. The American Institute of Physics also credits the photo [2] to AB Lagrelius & Westphal , which · Public domain

プランク定数hは、自然の最も基本的な定数の一つになった。2019年からは、質量の単位キログラムが、この定数の値を決めることで定義されている(キログラムの再定義)。1900年12月14日は、量子論の誕生日と呼ばれる。だが、その日のプランク自身は、何か新しい世界が生まれたとは思っていなかった。

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