『純粋理性批判』

概要
人は世界をそのまま見ているのではなく、自分の認識の形を通して見ている。哲学の問いの立て方が、この本の前と後で変わった。
場所
54.71°N 20.45°E · ロシア・カリーニングラード
関わった人(1)
イマヌエル・カントAD1724年4月22日–AD1804年2月12日 · 著者本文
1781年、東プロイセンの港町ケーニヒスベルクの大学教授、イマヌエル・カントが、800ページを超える本を出した。『純粋理性批判』である。カントは57歳だった。哲学の問いの立て方は、この本の前と後で大きく変わった。
カントは1724年、この町の馬具職人の家に生まれ、生涯ほとんど町を離れなかった。毎日決まった時刻に散歩をしたので、町の人がそれで時計を合わせた、という話が伝わる。若いころは、天体の生成や地震について書き、自然科学にも通じた評判の講師だった。1770年に教授になると、それから10年あまり、ほとんど何も出版しなかった。その沈黙の間に考え続けた結果が、この本である。

カントを考えに駆り立てたのは、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームだった。ヒュームは、原因と結果のつながりは、目で見て確かめられるものではないと論じた。火に手を入れれば熱いと感じる、ということを何度も経験すると、心がそれを結びつける習慣を作るだけだ、と。そうだとすると、ニュートンの物理学のような、確かで普遍的な知識は、どうして成り立つのか。カントは後に、ヒュームの考えが自分を独断のまどろみから目覚めさせた、と書いている。
カントの問いは、人は何を知ることができるのか、だった。経験から来るのではないのに、経験について確かなことを言える知識がある。たとえば、起きることにはすべて原因がある、という命題。数学の真理。それはなぜ可能なのか。

カントの答えは、考え方を裏返すことだった。それまでの哲学は、知識が対象に従う、と考えてきた。外の世界がまずあり、人の心はそれを写し取る。カントは逆に、対象のほうが人の認識の仕方に従うのだ、と考えた。カント自身、この発想を、天体が観測者の周りを回るのではなく観測者のほうが回っていると考えたコペルニクスの着想になぞらえている。後にこれは「コペルニクス的転回」と呼ばれるようになった。
人は、世界をそのまま見ているのではない。空間と時間は、世界そのものにある性質ではなく、人が物を感じ取るときの枠組みである。原因と結果、一つと多くといった考えの型も、人の知性が経験をまとめるときの形である。だから、経験されるものはすべて、必ず空間と時間の中にあり、必ず原因と結果で結ばれている。それは世界がそうだからではなく、人がそういう形でしか受け取れないからだ。こうして、経験に先立つ確かな知識が成り立つ理由が説明される。

その代わりに、人は、自分の認識の形を通さない「物それ自体」を知ることはできない。
ここから、本の後半の大きな主張が出てくる。神は存在するか。魂は死んでも残るか。世界には始まりがあるか。人には自由な意志があるか。これらは経験を超えた問いであり、経験の中でしか働かない人の理性では、決着をつけられない。カントは、世界に始まりがあることも、無いことも、同じくらいもっともらしく証明できてしまうことを示してみせた。それは理性の失敗ではなく、理性の限界を示している。神の存在を理屈で証明しようとする昔からの論法も、一つずつ退けた。
ただし、カントは神や自由を否定したのではない。知ることはできないが、考えることはできる。後の著作で、カントは、それらを道徳の行いの側から求められるものとして取り戻していく。知識の範囲を限ることで、信仰の場所を空けた、とカント自身が書いている。
本は、最初はほとんど理解されなかった。文が長く、新しい用語が次々に出てくる。出てすぐの書評は、カントを、世界は心の中の観念にすぎないと唱える観念論者として扱い、カントを怒らせた。カントは1783年に、より短い解説の本を出し、1787年には大きく手を入れた第2版を出した。そのころになって、この本を読み解く解説書が書かれ、若い世代の間で急に広まった。
カントは続けて、道徳を論じる『実践理性批判』、美と目的を論じる『判断力批判』を書いた。晩年には、国際平和のあり方を論じたカント『永遠平和のために』も出している。
カントの後のドイツの哲学者たちは、物それ自体という考えを乗り越えようとして、それぞれの体系を作った。その流れはヘーゲル『精神現象学』へと続く。20世紀の哲学も、科学論も、心理学も、人は世界をどのような枠組みを通して受け取っているのか、という問いを、カントから受け継いでいる。以後の哲学は、この本に賛成するにせよ反対するにせよ、この本を通らずには始められなくなった。