概要
インドで生まれた「四つの部分」という名の盤上遊戯。歩兵、騎兵、象、戦車、そして王と大臣。四つの兵科がそのまま駒になった。7世紀にペルシアへ渡ってシャトランジになり(王手を意味する「シャー・マート」が、チェックメイトの語源)、アラブ世界を経て、10世紀にヨーロッパへ。15世紀のヨーロッパで、大臣が最強の駒「クイーン」に変わった。同じ時期にイサベル女王がいたことと結びつける説がある。東へは、中国象棋、朝鮮のチャンギ、そして日本の将棋になった。
場所
25.61°N 85.14°E · インド・ビハール州パトナ
本文
**チャトランガ**。
サンスクリット語 **caturaṅga**——「**四つの部分(肢)**」。
古代インドの軍隊の、四つの兵科を指す語である。
- **歩兵**(padāti) - **騎兵**(aśva) - **戦象**(gaja) - **戦車**(ratha)
(『マハーバーラタ』に、この語が軍隊の意味で出てくる。)
そして、これがそのまま、**駒**になった。
歩兵 → **ポーン** 騎兵 → **ナイト** 象 → **ビショップ** 戦車 → **ルーク**
(英語の rook は、ペルシア語の rukh〈戦車〉から。ヨーロッパで意味が分からなくなり、「城(castle)」の姿になった。
bishop も同様である。象(アラビア語 al-fīl)が、ヨーロッパで司教になった。イタリアでは alfiere〈旗手〉、フランスでは fou〈道化〉、ロシアでは слон〈象〉——象のまま残った言語もある。)
そこに、**王**(rājā)と、**大臣**(mantrī)が加わる。
**起源**。
- 6世紀頃、**北インド**(グプタ朝の時代)とされる。 - 最古の明確な言及は、**7世紀**のサンスクリット文学。バーナバッタの『ハルシャチャリタ』(ハルシャ王の伝記)に、「**足のない者〈駒〉だけが戦い、王たちは戦わない**」という記述がある(平和な治世を讃える文脈で、戦争は盤の上にしかない、という意味)。 - ペルシアの叙事詩『シャー・ナーメ』に、インドの王がペルシアに盤を送り、その遊び方を当てられなければ貢納せよと挑んだ、という物語がある。
**西へ**。
**ペルシア**。**シャトランジ**(chatrang → shatranj)。
(ササン朝の時代、6〜7世紀。ペルシア語の文献『チャトラング・ナーマグ』に、その伝来が語られている。)
ここで、いくつかの語が生まれた。
- **シャー**(shāh)——王。 - **シャー・マート**(shāh māt)——「王が、**動けない/無力である**」。
(māt の意味については、アラビア語の「死んだ」と解する説と、ペルシア語の「途方に暮れた」と解する説がある。)
これが、**チェックメイト(checkmate)**の語源である。
そして、**チェック**(check)——王手。
(この語は、さらに広がった。「照合する」「阻止する」「小切手」。チェス盤の市松模様が「チェック柄」。会計の帳簿の格子〈exchequer、イギリスの財務省の語源〉。すべて、この盤に遡る。)
**アラブ世界**。
7世紀、イスラームの征服。シャトランジが、アラブ世界に入った。
(イスラーム法学者の間で、これが許されるかどうかが議論された。賭博を伴えば禁じられる。純粋な技の競技として認める見解が、多数になった。ただし、礼拝を怠るほど熱中することは非難された。)
アラブの棋士が、**理論書**を書いた。開局の定跡、詰めの問題(**マンスーバ**)。
(アッ=スーリー〈10世紀〉が、当時の最強の棋士とされ、カリフの相手を務めた。)
**ヨーロッパ**。
**10世紀頃**、二つの経路で入った。
- **イスラム支配下のスペイン**(アル=アンダルス)から。 - **ビザンツ**と、イタリアの交易から。
**11〜13世紀**、ヨーロッパ中に広がった。騎士の教養の一つになった。
(1283年、カスティーリャ王**アルフォンソ10世(賢王)**が、『**遊戯の書**』を編纂した。チェス、骰子、盤上遊戯の図解入りの写本。当時のヨーロッパのチェスの姿を知る、最も重要な史料である。)
**ルイス島のチェス駒**(12世紀。スコットランドのアウター・ヘブリディーズで発見)。セイウチの牙で彫られた、93個の駒。ノルウェー製とされる。
(**ルーク**が、盾を噛んでいる**ベルセルク**〈狂戦士〉の姿をしている。)
**大改革**。
**15世紀末**、ヨーロッパで、ルールが大きく変わった。
**(1)クイーンが、最強の駒になった**。
それまで、大臣(フェルス)は、**斜めに1マスしか動けない**、最も弱い駒だった。
それが、**縦横斜めに、何マスでも動ける**駒になった。
**(2)ビショップが、斜めに何マスでも動けるようになった**。
(それまでは、斜めに2マス跳ぶだけだった。)
**(3)ポーンの2マス前進**、そして**アンパッサン**、**キャスリング**。
**結果**——ゲームの速度が、**劇的に上がった**。
(それ以前のシャトランジは、駒の動きが遅く、一局に何時間もかかった。改革後、20手で決着することもある。)
この新しい形は、スペインで「**狂った女王のチェス**」(scacchi de la donna, o vero alla rabiosa)と呼ばれた。
**なぜ、女王が強くなったのか**。
歴史家マリリン・ヤロムが『**チェスの女王の誕生**』(2004年)で論じた説。
同じ時期に、ヨーロッパで**強力な女性の統治者**が現れていた。
- **カスティーリャのイサベル1世**(在位1474〜1504)。夫フェルナンドと共同統治し、実質的に主導した。グラナダを陥とし、コロンブスを送り出した。 - カタリーナ・スフォルツァ、マルガレーテ・フォン・エスターライヒ、そして後にエリザベス1世。
新しいルールを記述した最初期の書物の一つが、**1497年、スペイン**で出た(ルセナの本)。イサベルの時代である。
(この説は魅力的だが、直接の証拠はない。ルールの変更が、より単純に「ゲームを面白くするため」だった可能性も、当然ある。)
**東へ**。
**中国**——**象棋**(シャンチー)。
(駒を枡の中ではなく、**線の交点**に置く。盤の中央に「河」がある。「将」と「帥」が、宮(九宮)から出られない。**砲**という、他の系統にない駒がある〈間に一つ駒を挟んで飛ぶ〉。)
**朝鮮**——**チャンギ**。
**タイ**——**マークルック**。(初期の形をよく残しているとされる。)
**日本**——**将棋**。
**将棋の異例**。
日本の将棋は、この系統の中で、**唯一、決定的に異なる規則**を持つ。
**取った駒を、自分の駒として、盤に打てる**(持ち駒)。
(チェスも、象棋も、チャンギも、マークルックも、取った駒は盤から消える。)
**帰結**。
- 駒の総数が、**減らない**。 - だから、**終盤ほど、盤が複雑になる**。(チェスは、終盤に駒が減り、単純になる。) - **引き分けが、極端に少ない**。(プロの公式戦で、千日手と持将棋を合わせても、数%である。チェスのトップ棋士同士の対局は、半分以上が引き分けになる。) - そして、**局面の総数**が、桁違いに大きい。
(推定される局面数——チェス 10の47乗、将棋 10の69乗、囲碁 10の171乗。)
**現在**。
1997年、**ディープ・ブルー**が、世界チャンピオン**ガルリ・カスパロフ**を破った。
(当時、これは「人間の知性の敗北」として、広く報じられた。カスパロフは、後に、人と機械が協力する「アドバンスト・チェス」を提唱した。)
2017年、**アルファゼロ**。
ルールだけを与えられ、**自己対戦のみで**、数時間で、それまでの最強のプログラムを圧倒した。
(人間の棋譜を、一局も見ていない。そして、その指し手が「人間らしくない」と評された。長期的な代償を払って主導権を握る、という戦い方を好んだ。)
いま、チェスの世界チャンピオンより強いプログラムが、スマートフォンで動く。
それでも、チェスをする人の数は、減っていない。
(2020年、ネットフリックスのドラマと、パンデミックによる在宅で、オンラインのチェスの人口が急増した。)
1500年前に北インドで生まれた、四つの兵科を並べる遊びが、まだ遊ばれている。