人物

ヴァーツラフ・ハヴェル

Václav Havel
AD1936年10月5日 – AD2011年12月18日(享年75)
チェコスロヴァキア重要度 5

概要

ブルジョワの家の子で大学に入れず、劇場の舞台係から劇作家に。『ガーデン・パーティー』。1968年後、上演禁止。憲章77。獄に5年。『力なき者たちの力』。「真実の中に生きる」。1989年12月、大統領。1993年、チェコの大統領。13年。

関わったできごと(1)

ビロード革命AD1989年11月17日 · 大統領に

本文

1936年10月5日、プラハの裕福な実業家の家に生まれた。祖父はヴァーツラフ広場に面した複合施設ルツェルナを建て、父はプラハ南郊のバランドフ地区を開発し、叔父はそこに中欧有数の映画撮影所を築いた。少年時代は家政婦や運転手のいる暮らしで、本人は後に、恵まれすぎていることへの気まずさを幼いころから感じていたと語っている。

1969年、リュブリャナ劇場での『覚書』上演
1969年、リュブリャナ劇場での『覚書』上演Wikimedia Commons Creator:Marjan Pal · Public domain

1948年、共産党が政権を握ると(チェコスロヴァキアの二月事件)、一家の財産は没収され、ハヴェル家は「ブルジョワ」として階級の敵とされた。その出自のため、彼は普通の高校にも、望んだ大学の人文系の学部にも進めなかった。化学の実験室の助手として働きながら夜間の学校に通い、兵役も務めた。1959年、プラハの劇場で舞台の裏方として働き始め、翌年、小劇場「欄干の劇場」に移って、やがてその座付きの劇作家となった。

1963年の『ガーデン・パーティー』は、出世のために体制の決まり文句を覚え込むうちに、自分が誰なのか分からなくなってしまう青年の話である。1965年の『通達』では、役所に人工の公用語が導入され、誰も意味を理解できないまま組織が動いていく。言葉が中身を失い、人がその言葉に従って生きる世界を笑いにした不条理劇は、西側でも上演されて評判を呼んだ。彼は、同じプラハに生きたフランツ・カフカの作品に強い親しみを感じていた。1964年、労働者の家に育った気の強い女性オルガと結婚した。

1968年、共産党の指導者アレクサンデル・ドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、検閲がゆるんだ(プラハの春)。ハヴェルは自由な言論を求める作家たちの先頭に立ったが、8月、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構の軍が侵攻し、改革は押しつぶされた。翌年から彼の作品は国内で上演も出版も禁じられた。彼は北ボヘミアの山あいの田舎家フラーデチェクに移り住み、生活のためにビール工場で樽を転がす仕事もした。このときの経験は、のちに戯曲『謁見』に生かされている。

プラハの春に関わる図版:10 Soviet Invasion of Czechoslovakia - Flickr - The Central Intelligence Agency
プラハの春Wikimedia Commons The Central Intelligence Agency · Public domain

1975年、彼は共産党の指導者フサークに公開の手紙を書き、国民が恐怖から体制に従っているだけだと指摘した。1977年1月、ロックバンドの若者たちが裁かれたことをきっかけに、政府自身が署名した国際的な人権の約束を守るよう求める文書「憲章77」が発表された。哲学者パトチカらとともに、ハヴェルはその代表者の一人となった。パトチカは警察の長い取り調べのあと、その年のうちに亡くなった。

1978年に書いた評論『力なき者たちの力』で、彼は一軒の八百屋の話をしている。店主は、店の窓に「万国の労働者よ、団結せよ」というポスターを貼る。彼はその言葉を信じてはいない。ただ、貼らなければ面倒なことになるので貼る。体制は、こうした無数の小さな同意によって支えられている。だから、ある日店主がポスターを貼るのをやめること、つまり「真実の中に生きる」ことは、それだけで体制を揺るがす行為になる。この評論は手書きの写しで東欧中に回し読みされ、ポーランドの「連帯」の活動家たちにも読まれた。

ヴァーツラフ・ハヴェルと友人カロル・シドン(左、後にチェコの首席ラビ)
ヴァーツラフ・ハヴェルと友人カロル・シドン(左、後にチェコの首席ラビ)Wikimedia Commons myself · Public domain

1979年、不当に迫害された人々を守る委員会を作った罪で、4年半の刑を言い渡された。獄中から妻に宛てて毎週書き送った手紙は、のちに『オルガへの手紙』として本になった。1983年、重い肺炎にかかって釈放された。その後も何度も逮捕され、1989年1月には、20年前に焼身自殺した学生パラフを追悼する集会に参加して捕らえられ、5月まで獄中にいた。

1989年秋、東欧の共産党政権が次々に揺らぎ、11月にはベルリンの壁が崩れた(ベルリンの壁の崩壊)。11月17日、プラハで学生のデモを警官隊が殴打したことをきっかけに抗議が広がり、ハヴェルは反体制派を束ねる「市民フォーラム」を作った。ヴァーツラフ広場には連日数十万の人々が集まり、鍵束を鳴らして共産党政権に別れを告げた。血を流さずに政権が退いたこの変化は「ビロード革命」と呼ばれる(ビロード革命)。12月29日、連邦議会は全会一致で彼を大統領に選んだ。数か月前まで獄中にいた劇作家が、プラハ城の主となったのである。広場の人々の合言葉は「ハヴェルを城へ」だった。

2000年、ビル・クリントン、スペイン国王フアン・カルロス1世、シモーヌ・ヴェイユとともにいるハヴェル
2000年、ビル・クリントン、スペイン国王フアン・カルロス1世、シモーヌ・ヴェイユとともにいるハヴェルWikimedia Commons David Scull · Public domain

大統領としての最初の新年の演説で、彼は、私たちは道徳的に汚れた環境の中で生きている、それは体制に慣れ、それに従った私たち皆の問題だ、と語った。城の長い廊下を子ども用のキックボードで移動したという逸話が残るように、彼は堅苦しい儀礼を嫌った。しかし、チェコとスロヴァキアの対立は深まり、国を二つに分ける動きを止められないと悟ると、1992年7月、連邦を解体する役を自分は担わないとして大統領を辞任した。1993年1月、チェコスロヴァキアは平和のうちにチェコとスロヴァキアに分かれ、彼はチェコ共和国の初代大統領に選ばれた。

チェコの大統領を2003年まで2期務め、1999年にはチェコをNATOに加盟させた(NATOの結成)。1996年に妻オルガを癌で失い、自身も肺の癌の手術を受けた。翌年、女優のダグマルと再婚した。退任後は再び戯曲を書き、権力の座を去る政治家を描いた『去りゆく』を2011年には自ら監督して映画にした。長年のヘビースモーカーで、獄中の肺炎以来、呼吸器の病に悩まされ続けた。

2011年12月18日、フラーデチェクの田舎家で75歳で亡くなった。葬儀はプラハ城の聖ヴィート大聖堂で国葬として営まれた。翌年、プラハの空港は彼の名を冠した。革命のときに掲げられた、真実と愛は嘘と憎しみに打ち勝たねばならない、という彼の言葉は、いまもチェコで繰り返し引かれている。一方で、理想を語りすぎる人だという冷ややかな声も、国内には根強かった。不条理を描き続けた劇作家の人生そのものが、獄から城へという、どの戯曲よりも不条理な筋をたどった。

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