フルシチョフの秘密報告
概要
第20回党大会の最終日、深夜、外国の代表を外して4時間。「個人崇拝」。粛清、拷問、追放、戦争の失敗。レーニンの遺言。代表は泣き、気絶した。「秘密」は3か月でCIAが手に入れて新聞に載った。ポーランドとハンガリーが動いた。中国が怒った。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(1)
ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 報告本文
1953年3月、ヨシフ・スターリンが死んだ(スターリンの死)。後継の指導部は、まず秘密警察の長ベリヤを逮捕して銃殺し、収容所から少しずつ人を帰し始めた。しかし、スターリンその人について公に語る者はいなかった。1956年2月14日、モスクワのクレムリンで開かれたソ連共産党第20回大会でも、報告は平和共存や経済計画を語るばかりで、スターリンの名はほとんど出なかった。
その裏で、第一書記のニキータ・フルシチョフは準備を進めていた。1955年の末、党の書記ポスペロフを長とする委員会が作られ、1930年代の弾圧の記録を調べた。2月初め、委員会は党幹部会に報告した。1935年から40年にかけて約190万人が反ソ活動の罪で逮捕され、そのうち約69万人が銃殺されていた。大半は1937年と38年、いわゆる大粛清の2年に集中していた。幹部会の議論は荒れた。モロトフ、カガノヴィチ、ヴォロシーロフは、大会で話すことに反対した。彼ら自身が当時の決定に名を連ねていたからである。フルシチョフは、言わなければいつか真実が明るみに出たとき、自分たちが被告席に座ることになる、と押し切ったと回想している。もっとも、それはフルシチョフ自身にも当てはまった。彼は1930年代、モスクワとウクライナの党の長として、処刑の名簿に署名していた。

2月25日、大会の最終日、外国の共産党の代表を外した非公開の会議が開かれた。フルシチョフは代議員たちを前に、およそ4時間にわたって報告を読み上げた。題は「個人崇拝とその結果について」。まず、レーニンが死の前に書いた手紙を持ち出した。スターリンは粗暴にすぎ、書記長の地位から外すべきだ、という一節である。それから数字を示した。1934年の第17回党大会の代議員1966人のうち1108人が反革命の罪で逮捕された。その大会で選ばれた中央委員と候補139人のうち、98人が逮捕され、銃殺された。
報告は、拷問で取られた自白の実例を読み上げた。古参党員のエイヘは、獄中から、殴られて骨を折られ、身に覚えのない罪を自白させられたと訴える手紙をスターリンに送ったが、銃殺された。話は戦争にも及んだ。スターリンは独ソ戦の開戦前に寄せられた警告を退け、開戦直後には取り乱し、戦争中は地球儀を見ながら作戦を立てた、とフルシチョフは言った。戦時中にチェチェン人やカルムイク人などの民族を丸ごと追放したことにも触れ、ウクライナ人がそうならなかったのは、数が多すぎて追放する場所がなかったからだ、と付け加えると、議事録には会場の笑いが記録されている。ユーゴスラヴィアとの断絶については、スターリンが「小指を動かせばチトーはいなくなる」と言ったことを挙げ、死の直前の医師団事件では、スターリンが取調官に自白を取れなければ首を短くしてやると脅した、と述べた。自分を称える公式の伝記に、スターリンが自ら手を入れて賛辞を書き足していたことも明かされた。

会場の反応については、言葉を失った、泣いた者がいた、気分を悪くして運び出された者がいた、などの証言が伝えられているが、どこまで正確かは分からない。報告のあとに討論はなく、大会は報告を承認するという短い決議だけをして閉じた。
秘密は長く保たなかった。報告の写しは各地の党組織に送られ、党員の集会で読み上げられた。その数は数百万人に及んだ。東欧の党にも写しが渡り、ポーランドでは、党の機関で働いていた男がその一部を手に入れ、イスラエルの情報機関を通じてアメリカに渡ったとされる。6月4日、アメリカ国務省が全文を公表し、翌日の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された。
衝撃は東欧で大きかった。スターリンの名で押しつけられた体制そのものが疑われた。6月にはポーランドでポズナン暴動が起き、10月にはゴムウカが党の指導者に返り咲いた。同じ10月、ハンガリーでは学生と市民の要求が全国の蜂起に広がり、ソ連軍の戦車がそれを押しつぶした(ハンガリー動乱)。スターリンを否定することは、ソ連の支配を否定することと紙一重だった。

中国の反応は別の形をとった。毛沢東は、事前に相談もなくスターリンを全面否定したことに不満を抱いた。中国共産党は4月の論文で、スターリンには功績と誤りの両方があるとした。のちに毛沢東は、功績が7割、誤りが3割という言い方を好んだ。個人崇拝を批判されることは、自分への批判にもつながりうる。この行き違いは、やがて中ソの論争と対立へ広がっていった。西側の共産党も揺れ、イタリアの党を率いるトリアッティは、社会主義への道は一つではないとする「多中心主義」を唱えた。
ソ連国内では、収容所からの帰還と名誉回復が一気に進み、文学や芸術にも「雪解け」と呼ばれる時期が訪れた。1957年、モロトフらはフルシチョフを追い落とそうとして失敗し、「反党グループ」として退けられた。1961年の第22回大会のあと、スターリンの遺体はレーニン廟から運び出され、クレムリンの壁の下に埋め直された。報告の全文がソ連の中で公式に出版されたのは、ゴルバチョフの時代の1989年である。

報告は、スターリンの罪を個人の性格と「崇拝」に帰し、体制そのものや、報告する側の責任には踏み込まなかった。そうした限界は早くから指摘されている。それでも、党の最高の場で、最高指導者の犯罪が数字とともに語られたことの重みは消えない。フルシチョフは晩年の回想録で、あれは言わなければならなかった、という趣旨のことを書いている。