マックス・ウェーバー
概要
資本主義を生んだのは強欲ではなく、来世の不安から来る勤勉だと論じた。社会学という学問の骨格を作り、56歳でスペイン風邪に倒れた。
関わったできごと(1)
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』AD1905年 · 書いた本文
1864年4月21日、ドイツ中部のエルフルトで生まれた。8人きょうだいの長男だった。父マックスは法律家出身の政治家で、のちにベルリン市の参事会員、帝国議会の議員として国民自由党に属した。陽気で社交的、家には政治家や学者が集まり、少年ウェーバーは大人たちの議論を聞いて育った。母ヘレーネは信仰の篤いプロテスタントで、自分を律し、貧しい人々への奉仕に生きようとする人だった。享楽的で権威的な父と、禁欲的で内省的な母。その間の緊張が、彼の人生と学問の両方に影を落としたと言われる。

1882年、ハイデルベルク大学で法学を学び始めた。学生組合に入って酒を飲み、決闘で顔に傷をつけ、太って帰ってきた息子を見て、母は平手打ちをしたという。その後ベルリンとゲッティンゲンで学び、中世イタリアの商事会社の研究で博士号を、古代ローマの農業史の研究で大学教授の資格を得た。1893年、遠縁にあたるマリアンネ・シュニットガーと結婚した。彼女はのちに女性運動の指導者となり、夫の最大の理解者となった。
才能は早くから認められた。東部ドイツの農業労働者の実態を調べた報告で注目を集め、1894年、30歳でフライブルク大学の経済学の教授に、2年後にはハイデルベルク大学の教授になった。

1897年の夏、ハイデルベルクの彼の家を訪れた両親の前で、彼は父を激しく責めた。母が一人で息子を訪ねることさえ許さない父の横暴を、もう見過ごせないと言ったのである。父は怒って帰り、数週間後、旅先で急死した。和解の機会は永遠に失われた。
その後まもなく、彼は深刻な神経の病に襲われた。眠れず、講義の準備も、本を読むこともできなくなった。教壇に立つと声が出ず、窓の外を眺めるだけの日々が続いた。休職を重ね、イタリアやスイスで療養し、1903年にはついに教授職を辞した。働くことの意味を問う学者が、数年にわたって働けなかったのである。

回復の兆しが見えたころ、1904年から翌年にかけて雑誌に発表したのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』)。なぜ近代の資本主義は西ヨーロッパで生まれたのか。彼が注目したのは、金もうけを恥じるどころか、休まず働き、得た利益を浪費せずに再び投資する、という生き方だった。それは強欲から生まれたのではない。ジャン・カルヴァンの教えによれば、誰が救われるかは神によって予め決められており、人にはそれを知るすべがない。不安にかられた信徒たちは、与えられた職業に禁欲的に励み、その成功を自分が救われている証しと考えた。こうした宗教上の動機が、意図せずして資本主義の精神を育てた、と彼は論じた(物語「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史」)。
同じ1904年、彼はアメリカを旅した。セントルイスの万国博覧会にあわせた学術会議に招かれ、3か月にわたって各地を巡った。ニューヨークの摩天楼、シカゴの食肉工場、南部の黒人の大学、そして信仰の厚い宗派の人々。教会の会員であることが商売の信用の保証になっている社会を、彼は本の中に書き込んでいる。

論文の結びで、彼は暗い見通しを書いた。宗教の動機が消えた後も、資本主義は機械のように人々を動かし続け、人間を閉じ込める堅い殻になった、と。のちに英訳でこの言葉は「鉄の檻」と訳され、広く知られるようになった。
その後、彼は比較の範囲を世界に広げた。中国の儒教と道教、インドのヒンドゥー教と仏教、古代ユダヤ教を調べ、宗教が人々の経済の営みにどう影響したかを論じた。また、人が支配に従う理由を、伝統によるもの、指導者の非凡な資質、つまりカリスマによるもの、合理的な規則によるものの三つに分け、近代の国家と企業を動かす官僚制を分析した。こうした概念は、のちの社会学の基本的な道具になった。自宅には毎週のように学者や若者が集まり、ハイデルベルクの知的な中心となった。
1914年、第一次世界大戦が始まると、50歳の彼は予備役の将校として志願し、ハイデルベルク周辺の陸軍病院の管理を任された。初めは戦争を支持したが、やがてドイツの無制限潜水艦作戦や領土拡張の主張を批判するようになった。敗戦後は、講和の交渉に向かう代表団に専門家として加わり、新しい共和国の憲法を作る準備の議論にも加わった(ヴァイマル憲法)。

戦争の末期から敗戦直後にかけて、ミュンヘンの学生たちの前で『職業としての学問』と『職業としての政治』という講演を行い、1919年にはミュンヘン大学の教授となった。政治とは、情熱と判断力をもって、堅い板に力を込めてじわじわと穴をあけていく作業である、という言葉はよく知られている。
1920年6月、ミュンヘンで肺炎のため死んだ。当時流行していたスペイン風邪によるものとされる。56歳だった。書きかけだった大著『経済と社会』は、妻マリアンネが遺稿を整理して出版した。彼女はまた夫の伝記を書き、その名と学問を後世に伝えた。マルクス、デュルケームと並んで、社会学の基礎を築いた一人と言われている。