タレスの日食予言
概要
リュディアとメディアの戦いの最中に日が欠け、両軍が戦いをやめた。タレスがこれを予言したとヘロドトスが書く。自然を神話でなく法則で説明する試みの始まりに置かれる。
場所
37.53°N 27.28°E · トルコ・アイドゥン県
関わった人(1)
タレスBC624年頃–BC546年頃 · 予言したとされる本文
紀元前6世紀の初め、アナトリアの中央を流れるハリュス川をはさんで、西のリュディアと東のメディアが向き合っていた。リュディアは金で富んだ国で、王はアリュアッテス(ギュゲスのリュディア)。メディアは、バビロンと組んでアッシリアを倒したばかりの新しい強国で、王はキュアクサレス(メディア王国とエクバタナ)。両国の戦いは5年続き、どちらも決定的な勝ちを得られなかった。
ヘロドトスは、6年目の戦いの最中に起きたことを、こう書いている(ヘロドトス『歴史』)。両軍がぶつかり合っていると、突然、昼が夜に変わった。両軍はそれを見て戦いをやめ、和議を急いだ。キリキアの王とバビロンの王が仲立ちをし、リュディアの王の娘がメディアの王子に嫁ぐことで和約が固められた。誓いの儀式では、両者が腕を切り、互いの血をなめたという。以後、ハリュス川が両国の境となった。

この昼の闇について、ヘロドトスは一言つけ加えている。ミレトスのタレスが、この日の変化が起きることをイオニアの人びとに予告しており、しかもその年まで言い当てていた、と。
現代の天文学で計算すると、この時代にアナトリアで皆既日食が見えたのは、紀元前585年5月28日である。月の影はその日の午後、地中海から小アジアを横切って東へ進んだ。このためヘロドトスの言う戦いの日は、この日だったと考えられている。古代の出来事で、年だけでなく日付まで決められるものはごく少なく、これはその最も古い例の一つとされる。ただし、別の年の日食に当てる説もかつてはあった。

予言した人として名を残したタレスは、エーゲ海に面したイオニアの港町ミレトスの人である(タレス)。ミレトスは交易で栄え、エジプトや黒海沿岸、東方の国々と行き来があった。タレスは古代ギリシアで「七賢人」の一人に数えられ、アリストテレスは彼を最初の哲学者と呼んだ。
タレスは、万物のもとは水だと説いたと伝えられる。世界がどうできているかを、神々の系譜の物語ではなく、身のまわりにある一つのものから説明しようとした。アリストテレスは、彼が湿り気がすべてを養い、種がすべて湿っていることなどからそう考えたのだろうと推測している。正しいかどうかより、問いの立て方が新しかった。

タレスについては、多くの逸話が残っている。星を見上げて歩いていて井戸に落ち、召使いの娘に、天のことを知ろうとして足元のことが分からないと笑われた、とプラトンは書く。哲学など何の役にも立たないと嘲られたときには、星の観察から翌年のオリーブの豊作を予見し、冬のうちに町中の搾油機を安く借り占め、収穫の季節に高く貸して大儲けしてみせたという話をアリストテレスが伝えている。エジプトでは、ピラミッドの影の長さを測ってその高さを求めたとも伝えられる(ギザの大ピラミッド建設)。
では、本当に日食を予言できたのか。疑う研究者は少なくない。バビロニアの人びとは、長年の観測から、月食や日食がおよそ18年ごとに繰り返す周期を知っていた。タレスがその知識を伝え聞いていた可能性はある。だがその周期から分かるのは、日食が起こりうる時期までで、それが地上のどこで見えるか、皆既になるかまでは分からない。年を言い当てたのが偶然だったか、あとから付け加えられた話だったとしても不思議ではない。ヘロドトスが書いたのは、出来事から140年ほど後のことである。

それでも、この話が古代から語り継がれたこと自体に意味がある。天が暗くなるのは神々の怒りではなく、計算できる自然の繰り返しである。そういう見方が、紀元前6世紀のイオニアで生まれていたことを、この逸話は伝えている。
ミレトスでは、タレスに続いてアナクシマンドロス、アナクシメネスが現れ、世界のもとになるものを探し続けた。近くのサモス島からはピュタゴラスが出る。のちのギリシアでは、歯車を組み合わせて日食や月食の時期を示す機械まで作られた(アンティキティラ島の機械)。

ハリュス川で結ばれた和約は、長くは続かなかった。メディアの王位はまもなくペルシアのキュロスに奪われ、リュディアのクロイソスはハリュス川を越えてペルシアに攻め込み、滅ぼされる。ヘロドトスによれば、そのときクロイソスの軍が川を渡れるよう、流れを二つに分ける工事を考えたのもタレスだったという。ヘロドトス自身は、この話を信じていない。