アルクィン
概要
ヨークの学校で学び、カール大帝に招かれてアーヘンの宮廷学校を率いた。七自由学芸を教え、写本の書体を整え、皇帝に「民の声は神の声、と言う者に耳を貸すな。群衆の騒ぎは狂気に近い」と手紙を書いた。
所属
フランク王国関わったできごと(1)
アーヘンの宮廷学校AD782年 · 校長本文
アルクィンは、8世紀のイングランドの学者で、カール大帝に招かれてフランク王国の宮廷の学問を率いた人である。古い英語の名はエアルフワイン、ラテン語ではアルクィヌスと書く。いわゆる「カロリング・ルネサンス」の中心にいた人物で、彼が整えた教科書と写本は、古代ローマの学問を中世ヨーロッパへ受け渡す橋になった。
735年ごろ、イングランド北部のノーサンブリア王国に生まれた。幼くしてヨークの大聖堂付属の学校に預けられ、大司教エグベルトと、その弟子で後に大司教になるエルベルトに学んだ。ノーサンブリアは当時、西ヨーロッパで最も学問の進んだ土地の一つで、少し前にはベーダが『イングランド教会史』を書き、リンディスファーンの福音書のような写本が作られていた。エルベルトが767年に大司教になると、アルクィンが学校を任された。彼は詩の中でヨークの図書館の蔵書を列挙しており、聖書と教父の著作に加えて、ウェルギリウスやキケロなど古代ローマの作家の名が並ぶ。大陸にもこれほどの蔵書はめったになかった。

781年、新しい大司教のためにローマへ大司教の肩衣を受け取りに行った帰り道、北イタリアのパルマでカール大帝に会った。王は彼を宮廷に招き、アルクィンは翌782年ごろからフランク王国に移った。王はラテン語の読み書きも満足にできない聖職者が多いことを憂えており、王国全体の教育を立て直そうとしていた。アルクィンはその中心となる宮廷学校を率い(アーヘンの宮廷学校)、王とその子どもたち、宮廷の若い貴族や聖職者を教えた。
宮廷では、仲間どうしで古典や聖書にちなんだあだ名で呼び合う遊びがあった。カールは旧約の王にちなんで「ダビデ」、詩人アンギルベルトは「ホメロス」、のちにカールの伝記を書くエインハルトは聖書の工芸家「ベザレル」、そしてアルクィンはローマの詩人ホラティウスの名から「フラックス」と呼ばれた。学問の場に、和やかな空気があったことが分かる。

アルクィンは教科書を次々に書いた。文法、修辞学、弁証法、正書法、天文の計算についての手引きで、多くは師と弟子の問答の形をとる。カールの息子ピピンとの問答では、「太陽とは何か」「世界の輝き、天の美しさ、自然の恵み、昼の誉れ、時を分けるもの」、「人とは何か」「死の奴隷、通り過ぎる旅人、その場の客」と、謎かけのような答えが続く。文法・修辞・弁証の三学と、算術・幾何・天文・音楽の四科からなる「七自由学芸」は、こうした教科書を通じて中世の学校の基本になった。
仕事は学校の外にも及んだ。写し間違いの積み重なったラテン語の聖書(ヒエロニムスのウルガタ)の写本を比べて本文を整え、典礼の書もそろえた。789年にカールが出した教会と教育の改革の勅令『一般訓令』も、アルクィンが起草に関わったとする説がある。800年前後には、スペインの司教たちが唱えた「キリストは人としては神の養子である」とする説をめぐって論争し、反駁の書を何冊も書いた。
一方で彼は、王の政策にはっきりと異を唱えた。カールはザクセン人との長い戦いの中で、従わない者に洗礼を強い、改宗したばかりの人々に教会への十分の一税を課した。アルクィンは手紙で、信仰は自らの意志によるもので強いられるものではない、まず教えてから洗礼を授けよ、新しい信者に重い税をかけて信仰を嫌わせるな、と説いた。796年にアヴァール人を破ったときにも同じことを書き送っている。793年にヴァイキングが故郷の修道院を襲ったときには(ヴァイキングの襲来)、イングランドの王や修道士たちに長い手紙を書き、これは神の罰だと嘆いて身を正すよう求めた。

798年ごろ、カールに宛てた手紙の一節はよく知られている。「民の声は神の声、と言う人々の言うことに耳を貸してはならない。群衆の騒ぎは常に狂気に近いからである」。「民の声は神の声」という言い回しが文献に現れる早い例として、この手紙はしばしば引かれる。ただしアルクィン自身は、それを否定するために引いている。
796年、アルクィンはトゥールのサン・マルタン修道院の院長になった。60歳を過ぎてからの任地だったが、ここの写字室を王国でも指折りの写本の工房に育て、整えた聖書の写本を次々に作らせた。小さく丸く読みやすいカロリング小文字体は、いまのアルファベットの小文字のもとになった書体で、トゥールはその普及の大きな拠点になった。ただし、この書体はアルクィンが来る前からフランク王国のいくつかの修道院で使われ始めており、彼一人が作ったものではない。トゥールの学校からは、のちに大学者となるラバヌス・マウルスや、アルクィンの後を継ぐフリドゥギススらが出た。
800年のクリスマスにカールがローマで皇帝の冠を受けたとき(カール大帝の戴冠)、アルクィンはトゥールに残っていた。彼は手紙の中でカールを、教皇の上に立ってキリスト教徒の民を導く者と位置づけており、皇帝戴冠を支持する考えの持ち主だった。戴冠の際にカールに贈られた聖書は、彼の手で整えられたものだと伝えられる。

晩年のアルクィンは、聖霊降臨祭の日に死にたいと願っていたと、弟子が書いた伝記は伝える。804年5月19日、その年の聖霊降臨祭の朝、トゥールで死んだ。70歳前後だった。彼の書いた教科書や手紙は数百年にわたって写し継がれた。古代の作家の作品の多くは、彼の時代に整えられた写本の網の目を通って、いまに伝わっている。