人物

エロイーズ

Héloïse
AD1100年頃 – AD1164年5月16日(享年64・推定)
フランス王国重要度 4

概要

ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読む娘。叔父の家でアベラールに学び、愛した。息子アストロラーブ。結婚を拒んだ。「あなたの妻より娼婦と呼ばれたい」。アルジャントゥイユの修道女、パラクレの修道院長。手紙。「私は神のためでなく、あなたのために修道女になった」。

所属

フランス王国

関わったできごと(1)

アベラールとエロイーズAD1117年頃 · 手紙を書いた

本文

エロイーズは、12世紀のフランスで、当代随一の学識をうたわれた女性である。生まれは1100年頃とされるが、1090年頃とする説もあり、確かではない。母の名はエルサンドと伝わり、父は分からない。パリの郊外アルジャントゥイユの女子修道院で教育を受け、のちにノートルダム大聖堂の参事会員だった叔父フュルベールの家に引き取られた。ラテン語の古典に通じ、ギリシア語とヘブライ語も学んだとされる。その名はすでに若いうちから知られ、のちにクリュニー修道院長となるペトルス・ウェネラビリスは、少年のころ学問に打ち込む若い女性の評判を聞いていた、と後年の手紙に書いている。

19世紀中頃のエロイーズとされる版画
19世紀中頃のエロイーズとされる版画Wikimedia Commons Public domain

そのころパリで最も名の知れた教師が、ピエール・アベラールだった。弁証法の論争で師を次々に負かし、多くの学生を集めていた。アベラール自身が後に書いた自伝『災厄の記』によれば、彼はエロイーズを手に入れるつもりでフュルベールに近づき、その家に下宿して彼女の家庭教師になった。彼は彼女を、顔立ちでは人に劣らず、学識では並ぶ者がないと書いている。二人は恋に落ち、本を開いたまま、言葉より口づけのほうが多かったと、アベラールは振り返る。噂はパリ中に広まり、知らなかったのは叔父だけだった。

エロイーズは身ごもった。アベラールは彼女をブルターニュの姉のもとに送り、そこで男の子が生まれる。名はアストロラーブ、天体を測る器械の名だった。アベラールは叔父をなだめるために結婚を申し出たが、エロイーズはそれに反対した。『災厄の記』に記された彼女の言い分は、哲学者が妻や揺りかごや家事に縛られてよいはずがない、というものだった。結局、二人はパリでひそかに結婚する。ところが叔父がそれを言いふらし、エロイーズが否定したため、アベラールは彼女をアルジャントゥイユの修道院にかくまった。叔父は、甥が姪を捨てたと思った。1117年頃のある夜、フュルベールの差し向けた者たちがアベラールの寝所を襲い、彼を去勢した(アベラールとエロイーズ)。

エロイーズとアベラール(エドモンド・レイトン画,1882年頃)
エロイーズとアベラール(エドモンド・レイトン画,1882年頃)Wikimedia Commons Edmund Blair Leighton · Public domain

アベラールはサン・ドニ修道院で修道士になり、エロイーズにも修道女になるよう命じた。彼女はまだ若く、周りが引き止めるなかアルジャントゥイユの修道院で誓願を立てたと、アベラールは書いている。のちに彼女は、神への愛からではなく、あなたの命令でヴェールを取ったのだと書いた。やがて修道院の中で重い役に就くが、1129年頃、サン・ドニ修道院長シュジェールがアルジャントゥイユの土地の権利を主張し、修道女たちは追い出された(シュジェールはサン・ドニ修道院とゴシックの始まりを建てた人である)。行き場を失った彼女たちに、アベラールはシャンパーニュの片田舎に自分が建てた礼拝堂、パラクレを譲った。エロイーズはそこで修道院長となり、残りの生涯の三十年余りを過ごす。

二人の名を後世に残したのは、往復の書簡である。アベラールが友人に宛てた『災厄の記』を読んだエロイーズは、彼に長い手紙を書いた。妻という名は神聖で確かなものかもしれないが、自分にとっては愛人、あえて言えば娼婦と呼ばれるほうが甘い。そう書いた彼女は、ミサの最中にさえ過ぎた日の喜びが心に浮かぶこと、自分はそれを悔いることができず、人々の称える自分の敬虔は偽りなのだと打ち明けた。アベラールの返事は、神に心を向けるよう諭すものだった。彼は、自分が彼女を求めたのは欲望からで、愛からではなかったとまで書いた。

やがてエロイーズは個人の思いを語るのをやめ、修道院長として問いを投げるようになる。女の修道院のための規則はどうあるべきか、男のために書かれたベネディクトゥスの戒律(ベネディクトの戒律)を、女がそのまま守ることはできるのか。アベラールは修道女の生活の規則を書き、パラクレのために百篇を超える賛美歌を作った。エロイーズが聖書の読み方について出した42の問いに、彼が一つ一つ答えた問答集も残っている。

ベネディクトの戒律に関わる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
ベネディクトの戒律Wikimedia Commons Public domain

アベラールは1140年頃に異端の嫌疑で断罪され、1142年、クリュニーの庇護のもとで死んだ。ペトルス・ウェネラビリスは彼の遺体をひそかにパラクレへ送り、エロイーズに宛てた手紙で彼の最期の穏やかさを伝え、求めに応じて罪の赦しを記した書状を与えた。息子アストロラーブに聖職の口を世話することも約束している。アストロラーブのその後はほとんど分からない。

エロイーズは1164年5月16日に死に(1163年とする記録もある)、パラクレでアベラールの傍らに葬られた。二人の遺骨は時代とともに何度も移され、フランス革命でパラクレの修道院が廃されたあと、1817年にパリのペール・ラシェーズ墓地の墓所に並べて納められた。いまも花を手向ける人が絶えない。

アルジャントゥイユで修道服を纏うエロイーズ
アルジャントゥイユで修道服を纏うエロイーズWikimedia Commons Coloured stipple engraving by Miss Martin after B. Pernotin. · Public domain

書簡については、19世紀以来、本物かどうかが論じられてきた。後の時代の誰かが二人の名を借りて書いたのではないか、とくに中世の女性があれほど力強いラテン語を書けたのか、という疑いである。いまは本人たちの手によるものと見る研究者が多いが、手が加えられた可能性を指摘する声もある。また1999年には、修道院に写しが残る作者不明の恋文の集まりを、若いころの二人の手紙だとする説が出され、これも議論が続いている。

ジャン・ド・マンは『薔薇物語』で彼女の結婚への反対を引き、ルソーは小説に『新エロイーズ』という題を付けた。二人の物語は、しばしば「アベラールとエロイーズ」と男の名を先にして語られる。だが残された手紙を読むと、愛を語る言葉の率直さと、修道生活を女の側から問い直す鋭さで、より強い印象を残すのは彼女のほうである。

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