人物

チャールズ・ダーウィン

Charles Darwin
AD1809年2月12日 – AD1882年4月19日(享年73)
イギリス重要度 5

概要

種が変化することを膨大な観察で示した。人間が特別ではないという考えが広がる。

関わったできごと(2)

ビーグル号の航海AD1831年12月27日 · 同乗した博物学者『種の起源』AD1859年11月24日 · 著者

本文

1809年2月12日、イングランド西部のシュルーズベリーに生まれた。大西洋の向こうでエイブラハム・リンカーンが生まれたのと同じ日である。父ロバートは裕福な医師、父方の祖父エラズマス・ダーウィンは、生き物は変化するという考えを詩に書いた医師で博物学者だった。母方の祖父は陶磁器で財を成したジョサイア・ウェッジウッドである。8歳のとき母を亡くした。

1878年のダーウィン。名声が高まる一方、長年病に苦しんでいた
1878年のダーウィン。名声が高まる一方、長年病に苦しんでいたWikimedia Commons Leonard Darwin · Public domain

少年時代のダーウィンは、学校の古典の勉強には身が入らず、甲虫や鉱物を集め、兄と化学の実験をして過ごした。父の勧めでエディンバラ大学の医学部に入ったが、麻酔のない時代の手術を見るのに耐えられず、2年で離れた。次にケンブリッジ大学に移り、田舎の牧師になる道を選んだ。そこで植物学者ヘンズローと親しくなり、博物学への関心を深めた。

1831年、22歳のときに転機が来る。ヘンズローの推薦で、海軍の測量船ビーグル号に艦長フィッツロイの話し相手を兼ねた博物学者として乗り込むことになったのである。父は反対したが、母方の叔父の説得で許した。12月に出航した船は南アメリカの沿岸を何年もかけて測量し、太平洋を渡って世界を一周し、1836年10月に帰国した。このビーグル号の航海の5年近くのうち、ダーウィンはかなりの時間を陸の上で過ごし、化石を掘り、地層を調べ、動植物を集めた。船酔いには最後まで苦しんだ。

ビーグル号の航海に関わる図版:The Voyage of the Beagle
ビーグル号の航海Wikimedia Commons Charles Darwin · Public domain

航海に持っていったライエルの『地質学原理』は、地形はゆっくりした変化の積み重ねでできるという考えを説いていた。チリで大地震に遭い、海岸の土地が持ち上がったのを目にしたダーウィンは、その考えを実感した。1835年に立ち寄ったガラパゴス諸島では、島ごとにマネシツグミやゾウガメの形が少しずつ違うことに気づいた。ただし、島ごとに違うフィンチの意味を本人が悟ったのは帰国して標本を専門家に見てもらってからで、ガラパゴスで一瞬にしてひらめいたという話は後の単純化である。

帰国後、ダーウィンは種が変わりうるという考えをひそかにノートに書き始めた。1837年のノートには、一本の幹から枝分かれしていく生き物の系統の図が描かれている。翌1838年、経済学者トマス・マルサスの『人口論』を読んで、仕組みの見当がついた。生き物は生き残れる以上の数の子を生む。生まれつきのわずかな違いのうち、その環境で生き残りやすいものが次の世代に伝わる。それが長い時間積み重なれば、種は変わる。自然選択の考えである。

7歳のチャールズ・ダーウィン。母が死去する1年前。
7歳のチャールズ・ダーウィン。母が死去する1年前。Wikimedia Commons Ellen Sharples · Public domain

ところが、ダーウィンはこれを20年以上発表しなかった。1839年にいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚し、ロンドン郊外のダウンに移り住んで、10人の子をもうけた。原因のはっきりしない吐き気や疲れに生涯悩まされ、家からあまり出なかった。1844年には理論をまとめた長い草稿を書き、自分が死んだら出版してほしいとエマに託している。その後8年をフジツボの分類に費やした。証拠を十分に集めるまで慎重だったためとも、教会と社会の反発を恐れたためとも言われる。

急いだのは、1858年6月、マレー諸島で調査をしていた博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから一通の論文が届いたからである。そこには、ダーウィンが20年温めてきたのとほとんど同じ考えが書かれていた。友人のライエルと植物学者フッカーが間に入り、7月のロンドンのリンネ学会で、二人の論文が並べて読み上げられた。本人はどちらも出席していない。ダーウィンは幼い息子を亡くした直後だった。

翌1859年11月、『種の起源』が出た。示したのは二つである。種は変化するということと、その主な仕組みが自然選択だということ。人間についてはほとんど触れず、人間の起源にも光が当てられるだろう、と一文書いただけだった。それでも反響は大きく、翌年オックスフォードで開かれた討論会では、ダーウィンの側に立つ生物学者ハクスリーと、オックスフォードの主教ウィルバーフォースが激しくやり合ったと伝えられる。ダーウィン本人はこの場にもいなかった。

『種の起源』に関わる図版:Origin of Species title page
『種の起源』Wikimedia Commons John Murray, Publisher · Public domain

「進化」にあたる語は、初版ではほとんど使っていない。本を締めくくる最後の一語に動詞の形で一度出てくるだけで、名詞として使ったのは晩年の版からである。進歩や向上という含みを避けたためとされる。ダーウィンにとって変化は、より良いものへ向かう階段ではなく、その場所でうまく生きるための枝分かれだった。

自分の説が何を意味するのかは分かっていた。1871年の『人間の由来』では、人間もほかの動物と共通の祖先から生まれたと正面から論じた。妻エマは敬虔なキリスト教徒で、夫の考えが死後の別れを意味するのではないかと心を痛め、ダーウィンはそれを気にし続けた。1851年、長女アニーが10歳で病死したことが、信仰から離れていく決定的な出来事だったとされる。

若き日のダーウィン(1830年代後半)。航海から帰国後、30歳前後と見られる。
若き日のダーウィン(1830年代後半)。航海から帰国後、30歳前後と見られる。Wikimedia Commons George Richmond · Public domain

晩年は植物の受粉やミミズの研究に打ち込み、ミミズが土を耕す働きを40年以上かけて調べた本を死の前年に出した。1882年4月19日、ダウンの家で死んだ。73歳。家族は村の墓地に葬るつもりだったが、学界の求めでウェストミンスター寺院に葬られた。アイザック・ニュートンの墓の近くである。

ダーウィンは、親の性質がどうやって子に伝わるのかを知らなかった。同じ時代にグレゴール・メンデルがエンドウで遺伝の法則を見つけていたが、その仕事は広く知られないまま埋もれていた(メンデルのエンドウの論文)。20世紀に遺伝の研究と結びついて、自然選択の理論は生物学全体の土台になった。人間も自然の一部であり、特別に作られたものではない。その考えは、宗教や社会の見方にまで深く響き、いまも論争の火種であり続けている。

動画(1)

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