グプタ朝の黄金時代
概要
ゼロを含む十進法の記数法がここで整い、アラビアを経てヨーロッパへ渡る。いま世界が使う数字の出所。
場所
23.18°N 75.78°E · インド(グプタ朝の学術の中心)
関わった人(1)
サムドラグプタ?–AD375年頃 · 北インドを併せた王本文
4世紀から6世紀にかけて北インドを治めたグプタ朝の時代は、「黄金時代」と呼ばれてきた。ただし、その呼び方自体が、19世紀以降にイギリスの支配下で自分たちの誇れる過去を求めたインドの国民史の中で強められたものだ、という指摘もある。何が確かで、何が後から付け加えられた輝きなのかを分けて見る必要がある。
マウリヤ朝の成立から数えて600年ほど後、北インドは小さな国々と、北西から入ってきたクシャーナ朝やサカ人の勢力に分かれていた。320年頃、ガンジス川中流のマガダ地方で、チャンドラグプタ1世が「諸王の大王」を名乗って即位する。名門リッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚したことが、権威の後ろ盾になったとされる。この年が、グプタ紀元の元年として後の碑文で使われた。

その子のサムドラグプタが版図を大きく広げた。アラーハーバードに立つ古い石柱に、宮廷詩人ハリシェーナが王の功績を刻んだ碑文があり、倒した王の名が延々と並んでいる。北インドの王たちは滅ぼして領土を併せたが、南インドへの遠征では、倒した王をそのまま王として戻し、貢ぎ物を納めさせるだけにした。王は詩と音楽にも通じていたとされ、竪琴を弾く姿を刻んだ金貨が残っている。
3代目のチャンドラグプタ2世は、西インドを治めていたサカ人の王朝を倒し、アラビア海に面した港を手に入れた。西方との交易の富が流れこみ、グプタ朝の金貨はこの頃に最も多く作られる。デリーのクトゥブ・ミナールの境内に立つ高さ7メートルあまりの鉄の柱は、チャンドラという名の王を讃える銘を持ち、この王の時代に作られたとされる。1500年以上も野ざらしのまま、ほとんど錆びていないことで知られる。ちょうどこの王の時代に、中国の僧法顕がインドを訪れている。法顕は、人々は豊かで、刑罰は軽く、たいていは罰金で済むと書き残した。旅人の目に映った治安のよさは、この時代の安定を伝える数少ない同時代の証言である。

政治のやり方は、マウリヤ朝のような中央集権とは違った。直接治めたのはガンジス川流域の中心部で、その外側には服属した王たちが王のまま残り、貢ぎ物と軍役で結びついていた。役人に給料の代わりに土地からの収入を与えることも増えていく。緩やかなぶん、広い範囲をまとめておくことはできたが、外から強い圧力がかかると崩れやすい。
この時代の文化として、まず挙げられるのがサンスクリット語の文学である。カーリダーサは、王と森の娘の恋と別れを描いた戯曲『シャクンタラー』や、雲に伝言を託す恋の詩『メーガドゥータ』を書いた。18世紀にヨーロッパへ訳されて、ゲーテも『シャクンタラー』を讃えている。カーリダーサの生きた時期ははっきりしないが、チャンドラグプタ2世の宮廷にいたとする説が有力である。ヒンドゥー教の神々の物語を集めたプラーナ文献が形を整え、ヴィシュヌやシヴァを祀る石造りの寺院も、この頃から建てられ始めた。

天文学と数学も進んだ。アーリヤバタは499年、23歳のときに『アーリヤバティーヤ』を書き、円周率を3.1416とし、天が回っているように見えるのは地球が自転しているからだと述べた。この時代に、ゼロを含む十進法の位取り記数法が形を整えたと考えられている。ただし、ゼロの記号を使った位取りのはっきりした実例が残るのはもう少し後のことで、いつどこで完成したかには議論がある。詳しくは十進法と位取りの記数法に書いた。
仏教も衰えたわけではない。5世紀には、のちに数千人の学僧が学ぶことになるナーランダー僧院の創建が始まり、グプタ朝の王クマーラグプタ1世の創建とされる。西インドのアジャンター石窟の壁画で、いま最もよく知られている壁画が描かれたのも5世紀後半である。もっとも、アジャンターのその時期の石窟を支えたのは、グプタ朝と婚姻で結ばれた南隣のヴァーカータカ朝の王と家臣たちだった。「グプタ様式」と呼ばれるものの広がりは、グプタ朝の領土より広い。

衰えは、北西から来た。5世紀の半ば、中央アジアの遊牧勢力エフタル(インドではフーナと呼ばれた)が侵入を始める。スカンダグプタ王は一度はこれを撃退し、そのことを碑文に誇らしげに記した。だが5世紀末から6世紀初めにかけて、トーラマーナ、ミヒラクラという王に率いられたエフタルの侵入が北西インドを奪い、交易は乱れ、服属していた王たちは次々に離れた。この頃のグプタ朝の金貨は、金の含有量がはっきり落ちている。財政の苦しさが、硬貨そのものに表れている。グプタ朝は6世紀半ばには、地方の一勢力になって消えていく。
数学の記数法は、帝国が消えた後も残った。7世紀にはブラーマグプタがゼロを数として扱う規則を書き、その数字は8世紀にバグダードへ、さらに後にヨーロッパへと渡った。いま世界中で使われている数字の書き方は、この時代のインドにさかのぼる。黄金時代という呼び名にどこまで実態があるかには議論があるが、この時代に形を整えたものが千年以上にわたって世界に広がり続けたことは、確かだと言ってよい。