ハーヴェイ・ワイリー
概要
インディアナの農家に生まれ、南北戦争に従軍した。医学と化学を修め、1883年から農務省の主任化学者。砂糖と食品の分析から、防腐剤と着色料の乱用を確信した。1902年、志願した十二人の若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせて記録する試験を始めた。新聞が毒物班と名づけ、世論が動いた。1906年の法の成立に大きく寄与したが、運用をめぐって業界と省内で孤立し、1912年に辞職した。以後は雑誌で消費者運動を続けた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
純正食品薬事法AD1906年6月30日 · 調べた本文
ハーヴェイ・ワシントン・ワイリーは1844年10月18日、インディアナ州南部ケントの近くの丸太小屋で生まれた。父は農民で、独学で人に教え、奴隷制に反対する人だった。家は南部から逃げてくる奴隷を北へ送る秘密の道筋、「地下鉄道」の中継地の一つだったと伝えられる。
1864年、南北戦争のさなか、彼はインディアナの義勇兵の連隊に志願した。実戦にはほとんど出ないまま病に倒れ、除隊した。戦後、地元のハノーヴァー大学を出て、1871年にインディアナの医科大学で医学の学位を、1873年にはハーヴァードで理学の学位を得た。1874年から新設のパデュー大学で化学を教え、1878年にはドイツへ渡ってベルリンで学んだ。ドイツ帝国の成立から間もないドイツが、食品の取り締まりの法律を整えようとしていた時期で、ヨーロッパではすでに食べ物の中身を国が監視し始めていることを、彼は目の当たりにした。

帰国した彼は、砂糖の分析に取り組んだ。当時アメリカは砂糖を輸入に頼っていて、国内でテンサイやモロコシから作れないかが、農務省の関心事だった。だが分析を重ねるうちに、別のものが見えてきた。安いブドウ糖の液が蜂蜜と称して売られている。偽物は蜂蜜だけではなかった。
1883年、ワイリーは農務省の主任化学者になった。以後29年、その職にあった。1887年からは、食品の混ぜ物についての報告書を次々に出した。乳製品、香辛料、酒、砂糖、茶とコーヒー、缶詰、着色料。結果を淡々と並べた。牛乳の見本のうち何割が水で薄められていたか。香辛料のうち何割に砂や木くずが混じっていたか。缶詰の肉や野菜には、腐敗を隠すための防腐剤や、見栄えをよくする着色料が使われていた。中には毒性の疑われるものもあった。

1902年、議会が5000ドルの予算を認め、ワイリーは前例のない試験を始めた。農務省の若く健康な男性職員から志願者を募り、12人を選んだ。化学局の地下に食堂を作り、3度の食事をすべてそこで、量を量って出す。そこに防腐剤を少しずつ混ぜ、量を増やしていく。体重、体温、脈を毎日測り、排泄物はすべて分析した。試したのはホウ砂とホウ酸、サリチル酸、亜硫酸、安息香酸ナトリウム、ホルムアルデヒド、硫酸銅などである。どれも、ある量を超えると胃腸の不調や体重の減少が起きた、と報告された。ホルムアルデヒドの試験は、体調を崩す者が出て途中でやめたとされる。
新聞はこの若者たちを「毒物班」と名づけた。ワイリーはこの呼び名を嫌ったが、世論を動かしたのはまさにこの名だった。新聞は毎日のように彼らの様子を伝え、歌まで作られた。いまの基準で見れば、この試験には問題が多い。危険の説明は十分でなく、比べるための対照の群もなく、被験者は断りにくい立場の政府職員だった。それでも、食べ物の安全を科学の方法で確かめようとした、最初の組織的な試みだった。

1906年6月30日、純正食品薬事法が成立した。ワイリー一人の功績ではない。シカゴの食肉工場の惨状を描いたアプトン・シンクレアの小説『ジャングル』、女性団体の運動、州の役人たち、評判を守りたい一部の企業が、それぞれに後押しした。だが20年以上、議会に法案を出させ続けたのは彼であり、この法律は「ワイリー法」とも呼ばれた。
法ができると、今度は運用をめぐる争いが始まった。ワイリーは人工の甘味料サッカリンを禁じるべきだと主張したが、セオドア・ローズヴェルト大統領は、サッカリンが体に悪いと言う者は愚か者だ、自分の医者は毎日勧めている、と言い放ったと伝えられる。政府は専門家の委員会を作り、委員会はしばしばワイリーの判断を覆した。委員長は、皮肉にもサッカリンを発見した化学者レムセンだった。安息香酸ナトリウムの扱いでも、ウイスキーの表示でも、彼は押し返された。省内で権限を削られ、1911年には部下への給与の払い方をめぐって告発までされた。訴追にはいたらなかったが、1912年3月、彼は職を辞した。

その後の彼は、女性向けの家庭雑誌『グッド・ハウスキーピング』の研究所の長として、19年にわたって消費者のための運動を続けた。品物を試験して雑誌が保証する仕組みは、この時代に確立した。1929年には、自分の作った法律がいかに骨抜きにされたかを書いた本を出し、その題に「食品法に対する犯罪」という言葉を入れた。
1930年6月30日、ワイリーはワシントンで死んだ。85歳だった。純正食品薬事法の成立から、ちょうど24年後の同じ日だった。8年後の1938年、新しい法律で、薬を売り出す前に安全性を国が審査する仕組みが入った。彼が求め続けたものだった。この法律のもとで力を持った食品医薬品局は、のちにサリドマイド禍をアメリカで食い止めることになる。食品医薬品局の建物の一つには、いま彼の名がつけられている。