できごと

『史記』の完成

Shiji
BC91年頃
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民匈奴クシャーナ朝スキタイマウリヤ朝サカシャンシュン王国アイヌMin-YueNan-Yueヒンドゥーの諸王国シンハラBC91年頃長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC91年頃の版図を描いています(14勢力)。

概要

伝説の時代から同時代までを紀伝体で書いた。以後2000年の中国の歴史書の型になる。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

司馬遷BC145年頃–BC86年頃 · 著者

本文

司馬遷は、紀元前145年ごろ、黄河のほとりの竜門で生まれたとされる。生年には別の説もある。父の司馬談は、漢の朝廷で天文と暦を司り、記録を管理する太史令という職にあった。天の動きを読み、人の世のできごとを書き留める家である。司馬遷は10歳で古い文字で書かれた書物を読んだと、自ら書いている。

20歳のころ、司馬遷は長い旅に出た。長江の南を巡り、伝説の王禹が眠るという山に登り、孔子の故郷の曲阜で古い礼の名残を見、項羽や劉邦が戦った土地を歩いた。のちの『史記』の生き生きとした描写には、この旅で聞いた土地の古老の話が生かされている。

『史記』巻第二十九「河渠書」第七の残巻。唐写本。東京国立博物館所蔵。
『史記』巻第二十九「河渠書」第七の残巻。唐写本。東京国立博物館所蔵。Wikimedia Commons unknown Tang copyist of Sima Qian · CC BY 4.0

紀元前110年、漢の武帝は泰山で天と地を祭る封禅の儀式を行った。太史令でありながら病でその場に立ち会えなかった司馬談は、悔しさのなかで死の床につき、息子の手を取って、自分が書こうとしていた歴史を完成させるよう言い遺した。父の遺志を継いで書きはじめた。紀元前108年、司馬遷は父と同じ太史令になり、宮廷の書庫の記録を自由に読めるようになった。暦を改める仕事にも加わっている。

途中、匈奴に降伏した将軍を弁護して武帝の怒りを買う。紀元前99年、名将李広の孫の李陵は、5000の歩兵を率いて匈奴の地に深く入り、数万の騎兵に囲まれて奮戦したすえに降った。朝廷の誰もが李陵を罵るなか、意見を求められた司馬遷は、李陵の日ごろの人柄と戦いぶりを挙げ、降ったのは機会を見て漢に報いるためだろうと弁護した。武帝は、これを李陵をかばい、遠征を率いた将軍をそしるものと受け取った。

『史記』(明万暦二十六年北監刊本)附裴駰集解、司馬貞索隠、唐張守節正義
『史記』(明万暦二十六年北監刊本)附裴駰集解、司馬貞索隠、唐張守節正義Wikimedia Commons Public domain

死罪か、宮刑(去勢)か、金で贖うかを選ばされた。金は無い。家は貧しく、友人も親族も誰一人助けなかった。死ねば書きかけの本が消える。宮刑を選んだ。男としての誇りを奪われることは、当時の士にとって死よりも重い恥とされていた。

友人の任安への手紙に、その屈辱と、それでも書き終えねばならない理由を書き残している。人は誰でも一度は死ぬ。だがその死は、泰山より重いこともあれば、鳥の羽より軽いこともある、という一節はよく知られている。いま恥を忍んで生き延びているのは、書きかけのものを世に残さないまま死ぬのが無念だからだ、と彼は書いた。刑の後、司馬遷は皇帝の側近として文書を扱う中書令に就き、仕事を続けた。

国宝 『史記孝文本紀第十』(東北大学所蔵)
国宝 『史記孝文本紀第十』(東北大学所蔵)Wikimedia Commons Ōe no Iekuni (大江家国) · Public domain

完成したのは130巻、自序によれば52万字あまりである。伝説の黄帝の時代から、自分の生きる武帝の時代までを書いた。帝王の歴史を年を追って記す本紀12巻、年表10巻、制度や天文、経済を扱う書8巻、諸侯の家の歴史を記す世家30巻、そして個人の伝記を集めた列伝70巻。人を中心に歴史を描くこの形は、本紀と列伝を合わせて紀伝体と呼ばれる。完成は紀元前91年ごろと考えられているが、正確な年は分からない。司馬遷がいつどのように死んだのかも、記録が残っていない。

紀伝体と呼ばれるこの形が、以後2000年の中国の正史の型になる。後漢の班固はこれにならって漢一代の歴史を『漢書』にまとめ(『漢書』の完成)、以後の王朝はみな、前の王朝の歴史を同じ形で編むことになった。もとは『太史公書』と呼ばれたこの本が『史記』と呼ばれるようになったのは、後の時代のことである。

『史記』の版本
『史記』の版本Wikimedia Commons Zhonghua Book Company · Public domain

『史記』の値打ちは、型を作ったことだけではない。司馬遷は、勝った者だけでなく、負けた者や、権力の外にいた者も書いた。天下を取れなかった項羽を、皇帝と同じ本紀に入れた。秦に反乱を起こして半年で倒れた農民の陳勝を、諸侯と同じ世家に入れた(陳勝・呉広の乱)。生涯一度も国を持たなかった孔子もまた、世家に入れている。列伝には、荊軻の秦王暗殺未遂で知られる荊軻のような刺客、法の外で義を貫く侠客、商売で巨万の富を築いた商人、道化役者まで登場する。

列伝の最初に置かれた伯夷と叔斉の伝では、正しい人が飢え死にし、悪人が天寿を全うする世を見て、天の道は正しいのか間違っているのか、と問いかけている。自らの運命と重ねた問いとして読まれてきた。

『史記』の著者、司馬遷(前145年頃〜前86年頃)
『史記』の著者、司馬遷(前145年頃〜前86年頃)Wikimedia Commons Public domain

同時代の武帝についても、その政策の失敗を隠さずに書いている。度重なる遠征で国の財政が傾き、塩や鉄を国が専売にし、商人から重い税を取り、刑罰が厳しくなっていった様子を、書の巻や列伝の中で淡々と記した。仕えている皇帝を、その皇帝の生前に批判的に書いたことになる。一方で、武帝の時代に広がった世界も丁寧に書き留めた。北の匈奴の暮らしや制度を一つの列伝にまとめ、張騫の西域派遣によって初めて知られた西方の国々の様子を記した。中国の外の世界を、これほど具体的に書いた記録はそれまでになかった。武帝を書いた本紀は早くに失われ、いま伝わるのは後の人が補ったものである。削られたのではないかという推測もあるが、確かなことは分からない。

『史記』は、書き上げられたあとすぐには世に出なかった。司馬遷の外孫の世代になって、ようやく広く読まれるようになったと伝えられる。日本でも古くから読まれ、四面楚歌、背水の陣、完璧、鶏口となるも牛後となるなかれ、といった言葉は、どれも『史記』の場面から来ている。2000年前に一人の男が恥を忍んで書き上げた本の言葉を、私たちはいまも日常で使っている。

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