複式簿記の刊行
概要
ルカ・パチョーリの『算術・幾何・比および比例全書』の中の27ページ。ヴェネツィアの商人が200年使ってきた記帳法を、初めて印刷した。借方と貸方、日記帳・仕訳帳・元帳、そして「貸借が合わなければ、どこかが間違っている」。ゲーテは「人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つ」と言った。会社が、持ち主から独立した「一つの計算の単位」になった。
場所
45.44°N 12.32°E · イタリア・ヴェネト州
関わった人(1)
ルカ・パチョーリAD1447年頃–AD1517年6月19日 · 書いた本文
中世の終わりのイタリアの商人は、遠い土地に代理人を置き、何隻もの船に荷を分けて積み、為替手形で金を動かした。取引は長い時間をかけて多くの人の手を通る。誰にいくら貸し、誰からいくら借りていて、結局いま儲かっているのか。それを確かめる方法として、13世紀から14世紀にかけて、フィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの商人が少しずつ作り上げたのが、複式簿記である。
考え方は単純だ。一つの取引を、必ず二か所に、同じ金額で書く。布を現金で買えば、布という財産が増え、現金という財産が減る。その両方を記録する。帳簿の左右には借方と貸方が並び、すべての取引を書き終えれば、左右の合計は必ず等しくなる。等しくなければ、どこかに誤りがある。現存する最も古い完全な複式の帳簿の一つは、ジェノヴァの市の財務官が1340年に付けたものとされる。トスカーナの町プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(1335頃〜1410年)は、十数万通の手紙と数百冊の帳簿を残し、帳簿の初めに「神と利益の名において」と書いた。フィレンツェのメディチ銀行も、各地の支店の帳簿をこの方法で管理していた。
この記帳法を初めて印刷して世に出したのが、ルカ・パチョーリである。トスカーナのサンセポルクロに生まれた彼は、若い頃ヴェネツィアの商人の家で子どもたちの家庭教師をしながら商売の実際に触れ、のちにフランシスコ会の修道士となって、各地の大学で数学を教えた。1494年11月、ヴェネツィアで彼の大著『算術・幾何・比および比例全書』が印刷された。600ページを超えるこの本は、当時の算術と代数と幾何を、学者のラテン語ではなく、商人が読めるイタリア語でまとめたものだった。その中の一章「計算と記録について」が、わずか27葉ほどで複式簿記を説明している。グーテンベルクの活版印刷から40年ほど、印刷術がヴェネツィアで花開いていた時代である。

パチョーリの説明は、実際の商人の手順に沿っている。まず、手元のすべての財産と借金を書き出した財産目録を作る。現金、宝石、銀器、布、家屋、貸している金、借りている金を、値打ちの高いもの、失いやすいものから順に。そのうえで、三冊の帳簿を付ける。取引のたびにその場で何でも書き付ける覚書帳、それを日付の順に借方と貸方に整理し直す仕訳帳、そして勘定ごとに集め直す元帳である。どの取引も、一方の勘定に借方として書いたら、もう一方の勘定に貸方として書く。ときどき元帳の借方と貸方の合計を突き合わせて、誤りが無いかを確かめる。最後には損益の勘定を締め、それを資本の勘定に移して、商売がどれだけ増えたかを知る。
パチョーリ自身は、自分が発明したとは言っていない。ヴェネツィアで行われている方法を書いたのだと明言している。それでも、印刷されたことの意味は大きかった。手から手へ、徒弟から徒弟へ伝わっていた商人の秘伝が、誰でも本で学べる技術になったのである。16世紀のうちに、彼の説明は形を変えてオランダ語、フランス語、英語、ドイツ語などで出版され、ヨーロッパ中に広がった。

複式簿記には、いくつもの効き目がある。まず、間違いが見つかる。左右が合わなければ、どこかで書き損じている。次に、ごまかしがしにくくなる。一か所の数字だけを変えると、必ずどこかで合わなくなるからだ。さらに、商売のすべてが、利益という一つの数字にまとまって見える。そして何より、商売を商人の家計から切り離して、それ自体を一つの計算の単位として扱えるようになった。店の財産と主人の財布を分けて考えるこの発想の上に、のちの株式会社、有限責任、監査、法人といった仕組みが積み上がっていく。
ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795〜96年)では、商人の友人ヴェルナーが、複式簿記を人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つだと讃える(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)。20世紀の初め、ドイツの経済学者ゾンバルトは、複式簿記なしに資本主義は考えられないとまで論じ、マックス・ウェーバーも合理的な経営を支える仕組みとしてこれを重く見た。もっとも、複式簿記が資本主義を生んだのか、それとも商売の大きさと複雑さが複式簿記を広めたのかについては、歴史家の間で議論がある。

パチョーリはその後ミラノの宮廷に招かれ、そこでレオナルド・ダ・ヴィンチと親しくなった。レオナルドは彼から幾何を学び、パチョーリの著書『神聖比例論』のために、立体の挿絵を描いている。1499年、フランス軍がミラノを占領すると、二人はそろって町を離れた。パチョーリは1517年頃に生まれ故郷で世を去った。
日本では、明治の初めの1873年、福沢諭吉がアメリカの簿記の教科書を『帳合之法』として訳し、西洋式の簿記を紹介した。それまでの日本の商家にも、大福帳を中心とした独自の精緻な帳合の方法があったが、銀行や会社が作られるとともに、複式簿記が標準になっていく。いま世界中の会社の決算書は、500年以上前にヴェネツィアの商人が使い、一人の修道士が本にまとめた方法の延長の上にある。