概要
クーベルタンが1894年にパリで提唱し、2年でアテネに開いた。14か国、241人(全員男性)。9競技43種目。パナシナイコ・スタジアム、6万人。マラソンは、この大会のために創られた種目(フェイディッピデスの伝説から。古代の競技にはなかった)。ギリシアの羊飼いスピリドン・ルイスが勝った。優勝者に与えられたのは銀のメダルとオリーブの枝。金銀銅は1904年から。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア
関わった人(1)
ピエール・ド・クーベルタンAD1863年1月1日–AD1937年9月2日 · 提唱した本文
古代のオリュンピア祭。BC776年からAD393年(テオドシウス1世が異教の祭りとして禁じた)まで、4年ごとに、ゼウスの聖域オリュンピアで行われた。競技、犠牲、そして休戦(エケケイリア)。
19世紀。ヨーロッパで、古代の復興が繰り返し試みられた。1612年からイングランドのコッツウォルズ「オリンピック・ゲームズ」(田舎の競技会)。1850年から、シュロップシャーのマッチ・ウェンロックで、医師ウィリアム・ペニー・ブルックスが「ウェンロック・オリンピアン・ゲームズ」を開いた。1859年から、ギリシアの実業家ザッパスの資金で、アテネで「ザッピア・オリンピック」(4回)。
ピエール・ド・クーベルタン。1890年、マッチ・ウェンロックを訪ねて、ブルックス(当時81歳)に会った。彼はそこから、国際的な大会という着想を得た(彼は後年、ブルックスの功績にほとんど触れなかった)。
1892年11月25日、ソルボンヌで演説。反応は薄かった。1894年6月16〜23日、ソルボンヌで国際会議(名目はアマチュアリズムの規則の統一)。12か国、79人。6月23日、オリンピックの復興と、国際オリンピック委員会の設立が決まった。第1回は1896年、アテネ。
(クーベルタンはロンドンかパリを考えていた。ギリシアの代表ヴィケラスが、アテネを主張して通した。)
ギリシアは破産していた(1893年に債務不履行を宣言していた)。首相トリクピスは反対した。皇太子コンスタンティノスが委員会を作り、募金を集めた。アレクサンドロス・アヴェロフ(アレクサンドリアで財を成したギリシア人)が、パナシナイコ・スタジアム(BC4世紀の競技場の跡に、大理石で再建)の費用92万ドラクマを出した。
1896年4月6日(ギリシア暦3月25日、独立記念日)、開会。国王ゲオルギオス1世。6万人(8万とも)。
参加。14か国(数え方で12〜14)、241人(諸説)。全員が男性。多くは、たまたまアテネに滞在していた旅行者や留学生が、その場で申し込んで出た。アイルランドの学生ジョン・プリング・ボーランドは、観光で来ていて、テニスに出て優勝した。
9競技43種目。陸上、水泳(軍艦から海に飛び込んで泳いだ。水温13度)、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニス、重量挙げ。
マラソン。この大会のために創られた。古代の競技にはない。フランスの言語学者ミシェル・ブレアルが、クーベルタンに提案した。BC490年、マラトンの戦いの勝利を伝えるためにアテネまで走って死んだ、という伝令の伝説(ヘロドトスは書いていない。プルタルコスとルキアノスが記す。名前もフェイディッピデスとテルシッポスで揺れる)。
4月10日、マラトンの村から、スタジアムまで40キロ。17人が出走した。スピリドン・ルイス、24歳、水運びの仕事をしていたギリシア人。2時間58分50秒。彼がスタジアムに入ったとき、皇太子二人が走り寄って、彼と並んでゴールまで走った。ギリシアの優勝はこれだけで、国中が沸いた。彼は褒賞を辞退して、荷車を引く馬を1頭だけ求めた、と伝わる。
賞。優勝者に銀メダルとオリーブの枝と賞状。2位に銅メダルと月桂樹。3位には何もなかった。金・銀・銅の3位までという形は、1904年のセントルイスから。
女性。参加を認められなかった。クーベルタンは「女性の役割は、勝者に冠を授けることだ」と書いた。スタマタ・レヴィティという女性が、マラソンを一人で走った(前日、あるいは翌日に。記録は曖昧)という話が伝わる。女性の参加は1900年のパリから(テニスとゴルフ、22人)。
その後。1900年パリと1904年セントルイスは万博の付属行事になって、数か月にわたって行われ、影が薄かった。1908年ロンドンで形が整った。1912年ストックホルムから、近代五種と電気計時。
1913年、五輪のマーク(五つの輪)をクーベルタンが考案した。