本居宣長『古事記伝』
概要
松阪の医者が、35年かけて『古事記』を全部注釈した。44巻。1000年、誰も読めなくなっていた古事記の音を、万葉集と祝詞から復元した。「漢意(からごころ)を去れ」。儒教と仏教の理屈で読まず、あったままを。「もののあはれ」。国学の頂点で、そこから平田篤胤の復古神道が出て、幕末の尊王が出た。
場所
34.58°N 136.53°E · 三重県松阪市
関わった人(1)
本居宣長AD1730年6月21日–AD1801年11月5日 · 書いた本文
712年に成立した『古事記』の完成は、日本の神話と古い天皇の物語を伝える書物である。しかし8年後に完成した『日本書紀』の完成が正式な歴史書として重んじられたのに対し、『古事記』は長く脇に置かれてきた。最大の理由は、読めないことだった。『古事記』は漢字だけで日本語を書き表している。漢字の意味で読ませる部分と、音だけを借りて日本語の音を写す部分が入りまじり、時代が下るにつれて、本来どう読まれていたのか分からなくなっていた。
この書を読み解こうとしたのが、伊勢の松坂の町医者、本居宣長だった。1730年に木綿を商う家に生まれた宣長は、商人に向かず、京都で医学と儒学を学んで松坂に戻り、小児科を中心に医者を開業した。京都にいた頃から和歌と古典に親しみ、『源氏物語』などの研究を重ねていた。

1763年の夏、宣長は、伊勢参りの途中に松坂に泊まっていた国学者の賀茂真淵を宿に訪ねた。真淵は67歳、宣長は34歳。生涯ただ一度の対面で、のちに「松坂の一夜」と呼ばれる。宣長が『古事記』を研究したいと打ち明けると、真淵は、自分も志したが年老いて果たせなかった、古い時代の心を知るには、まず古い言葉を知らねばならない、そのためには『万葉集』から学ぶのがよい、と励ましたと伝えられる。宣長は真淵に入門し、以後、手紙で教えを受けた。
翌1764年頃から、宣長は『古事記伝』に取りかかった。真淵との手紙のやり取りは、1769年に真淵が死ぬまで続き、宣長は『万葉集』の読み方などについて質問を重ね、時には厳しく叱られもした。医業を続けながら、夜に机に向かう日々が30年以上続いた。書き上げたのは1798年、宣長は69歳になっていた。全44巻である。

方法は徹底していた。『古事記』の本文の一字一字について、どう読むか、なぜそう読むかを、『万葉集』の成立の歌、神に捧げる祝詞、天皇の言葉を記した宣命、各地の風土記などに残る古い言葉の用例を引いて示した。冒頭の「天地初発之時」を「あめつちのはじめのとき」と訓むところから始まり、神の名の一つ一つ、地名の一つ一つに注を付けた。宣長が付けた読み方は、いまも『古事記』を読む土台になっている。
第1巻は総論で、その中に「直毘霊」という文章が収められている。宣長はそこで、『日本書紀』は漢文で、中国の考え方に合わせて飾って書かれているが、『古事記』は古い日本の言葉と心をそのまま伝えている、と論じた。そして、物事を儒教や仏教の理屈で解釈しようとする態度を「漢意」と呼び、それを捨てて、古い書物に書かれたことをあるがままに受け取るべきだ、と説いた。中国では「道」という教えが無ければ国が治まらないとするが、日本の古い世には、そうした教えが無くても、神の御心のままに国が治まっていた、というのである。
宣長は文学についても同じ態度を貫いた。『源氏物語』を論じた『紫文要領』や晩年の『源氏物語玉の小櫛』で、物語は儒教や仏教の教訓を説くためのものではなく、人が物事に触れて心を動かされる「もののあはれ」を知るためのものだ、と論じた。『源氏物語』を道徳の書として読む読み方から、心の動きを描く文学として読む読み方への転換だった。

宣長の主張には反論もあった。大坂の作家上田秋成は、日の神が世界を照らすという神話をそのまま事実として受け取る宣長の態度を批判し、二人は激しい論争を交わした。古い伝えをあるがままに受け取るという方法は、学問の厳密さと、古代への信仰とが分かちがたく結びついたものだった。
『古事記伝』は、完成を待たずに刊行が始まった。1790年に最初の巻が出て、宣長の死後も門人たちが出版を続け、全巻が刷り終わったのは1822年である。宣長は松坂の自宅の二階に書斎を設け、鈴を掛けて楽しんだことから、その書斎は鈴屋と呼ばれた。門人は全国に500人近くいたとされる。

晩年の宣長は、学問を志す人のための手引き『うひ山ぶみ』や、随筆『玉勝間』も著した。宣長は1801年に死んだ。72歳だった。遺言で、山室山に墓を作り、その後ろに山桜を植えるよう、図まで描いて指示した。敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花、という宣長の歌はよく知られている。
宣長の死後、その門人を名乗った平田篤胤は、宣長の古道の考えを、死後の世界まで説く信仰の体系に作り変えた。平田派の国学は幕末の各地の豪農や神職に広まり、天皇を中心とする古い世に戻るべきだという尊王の思想を支えた。それは王政復古の大号令で神武天皇の創業の昔に戻ると唱えた明治維新の理念にもつながっていく。のちには宣長の山桜の歌が、太平洋戦争の最初の特攻の部隊名にも使われた。宣長自身は、理屈を立てて人を導くことを戒めた人で、教えの体系を作った人ではなかった。それでも、その仕事は、彼の思いもよらない方向へも受け継がれていった。