概要
バスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
イグナティウス・デ・ロヨラAD1491年頃–AD1556年7月31日 · 創立したフランシスコ・ザビエルAD1506年4月7日–AD1552年12月3日 · 最初の7人本文
1521年5月20日、パンプローナ。フランス軍が城を囲んだ。ロヨラ家の30歳の武人イニゴが、守備側の士気を保って抵抗を続けさせた。砲弾が両脚を砕いた。城は落ちた。
フランス軍は、彼を担架で故郷のロヨラ城へ送った。骨を接いだが、曲がってつながった。彼は、宮廷で目立つために、麻酔なしで骨を切り直させ、脚を引き伸ばす器具にかけた。生涯、片脚を引きずった。
療養の長い日々。彼は騎士道物語を読みたがった。城にはなかった。あったのは『キリスト伝』と『黄金伝説』(聖人伝)だけ。
読んだ。そして気づいた。騎士物語や、宮廷の女性のことを空想した後は、心が乾いて、虚しくなる。聖人の真似をすること——エルサレムへ裸足で行く、フランチェスコやドミニコのように生きる——を空想した後は、心が満たされたままである。
「霊の識別」。この観察が、後の『霊操』の核になった。
1522年、モンセラートの修道院で、剣を聖母像の前に掛け、乞食に自分の服を与えた。マンレサの町の近くの洞窟で、11か月。断食と祈りと、そして深い落ち込み(自殺を考えた、と書いている)。そこで、記録と整理を始めた。それが『霊操(Exercitia spiritualia)』。
4週間の黙想の手引き。指導者が、受ける人に、毎日、何をどう黙想するかを指示する。罪、キリストの生涯、受難、復活。想像力を使う(場面の中に自分を置き、においを嗅ぎ、音を聞く)。そして「識別」。自分の心の動きを観察して、どちらの方向が神から来ているかを見分ける。
1523年、エルサレム巡礼。とどまろうとしたが、フランシスコ会の管区長に追い返された。
帰って、学び直すことにした。33歳。バルセロナで、子供に混じってラテン語の初歩を学んだ。アルカラ、サラマンカ(異端審問所に2度、拘束された。無学の男が霊的な指導をしているという理由で)。1528年、パリ大学。7年。サント・バルブ学寮。同室に、サヴォワの貧しい家の秀才ピエール・ファーヴルと、ナバラの貴族の子フランシスコ・ザビエル。
ザビエルは、初め彼を嫌った。運動選手で、野心家で、教授職を狙っていた。イグナティウスは彼に、繰り返し言った。「人が全世界を得ても、自分の魂を失えば、何の益があるか」。数年かけて、ザビエルが変わった。
1534年8月15日、聖母被昇天の日。モンマルトルの丘の、殉教者聖ドニの礼拝堂。7人が誓願を立てた。清貧、貞潔、そしてエルサレムへ行くこと。行けなければ、教皇の命ずるところへ行くこと。
1537年、ヴェネツィアで待った。トルコとの戦争で、エルサレム行きの船が出なかった。1年待って、諦め、ローマへ。
1539年、彼らは会として組織することを決めた。1540年9月27日、教皇パウルス3世の大勅書「レジミニ・ミリタンティス・エクレジエ」。「イエズス会(Societas Iesu)」の認可。会員は60人まで、という制限つきだった(1544年に撤廃)。
特徴。(1)修道院に籠もらない。合唱の聖務日課をしない。定まった修道服がない(土地の聖職者の服を着る)。(2)教皇への直接の従順(「第四の誓願」。派遣先を、教皇が決められる)。(3)総会長が終身で、上意下達の指揮系統。「死体のように従順であれ」(『会憲』の比喩)。(4)長い養成期間(14年以上)。
事業。(1)宣教。ザビエルがインド、マラッカ、日本へ(1549年)。マテオ・リッチが中国へ(1583年。中国の服を着て、儒者として振る舞い、暦と地図と時計で宮廷に入った)。デ・ノビリがインドで、バラモンの生活に合わせた。「適応主義」。南米のパラグアイでは、グアラニー族の「レドゥクシオン(保護共同体)」を作り、奴隷狩りから守った(1750年代に潰された)。
(2)教育。1548年、メッシーナに最初の学校。100年で500校。無償で、身分を問わず入れた。デカルト、モリエール、ヴォルテール、コルネイユ、ディドロが、イエズス会の学校で学んだ(そして、そのうち何人かは会を批判した)。
(3)学問。天文(クラヴィウス。グレゴリオ暦の改革の中心)、地震学(「イエズス会の科学」と呼ばれるほど、19世紀に地震観測網を作った)、言語(各地の言葉の文法と辞書を作った。日本語の『日葡辞書』1603年)、地図。
反発。ドミニコ会と対立し(恩寵をめぐる論争、そして中国の典礼をめぐる論争)、各国の王権と対立し(フランス、ポルトガル、スペインが順に追放した)、1773年、教皇クレメンス14世が会を解散させた。会員2万3000人が散った。ロシアのエカチェリーナ2世とプロイセンのフリードリヒ2世だけが、勅書の公布を認めず、彼らの領内で会が生き延びた。1814年、ピウス7世が再興した。
2013年、初めてイエズス会士の教皇が選ばれた(フランシスコ)。