できごと

イエズス会の創立

Founding of the Jesuits
AD1540年9月27日
重要度 5
スペイン帝国ポルトガル帝国ロシア帝国オスマン帝国ノガイ・オルダサファヴィー朝ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェーヒヴァ・ハン国スウェーデンソンガイ帝国神聖ローマ帝国カザン・ハン国マリ帝国リトアニア大公国フランス王国サーミスペインポーランド王国カネム=ボルヌWatassid Moroccoハンガリー王国ダルフールEngland and Irelandアストラハン・ハン国クリム・ハン国ヴェネツィア共和国ハドラマウトMahraワダイ王国スコットランドGharraHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1540年9月27日ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1540年9月27日の版図を描いています(35勢力)。

概要

バスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(2)

イグナティウス・デ・ロヨラAD1491年頃–AD1556年7月31日 · 創立したフランシスコ・ザビエルAD1506年4月7日–AD1552年12月3日 · 最初の7人

本文

1521年5月20日、パンプローナ。フランス軍が城を囲んだ。ロヨラ家の30歳の武人イニゴが、守備側の士気を保って抵抗を続けさせた。砲弾が両脚を砕いた。城は落ちた。

フランス軍は、彼を担架で故郷のロヨラ城へ送った。骨を接いだが、曲がってつながった。彼は、宮廷で目立つために、麻酔なしで骨を切り直させ、脚を引き伸ばす器具にかけた。生涯、片脚を引きずった。

創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエル。彼は日本にキリスト教を伝えたことで知られる。神戸市立博物館蔵。
創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエル。彼は日本にキリスト教を伝えたことで知られる。神戸市立博物館蔵。Wikimedia Commons Public domain

療養の長い日々。彼は騎士道物語を読みたがった。城にはなかった。あったのは『キリスト伝』と『黄金伝説』(聖人伝)だけ。

読んだ。そして気づいた。騎士物語や、宮廷の女性のことを空想した後は、心が乾いて、虚しくなる。聖人の真似をすること——エルサレムへ裸足で行く、フランチェスコやドミニコのように生きる——を空想した後は、心が満たされたままである。

イエズス会員と日本人(1600年ごろ)
イエズス会員と日本人(1600年ごろ)Wikimedia Commons Anonymous Japanese · Public domain

「霊の識別」。この観察が、後の『霊操』の核になった。

1522年、モンセラートの修道院で、剣を聖母像の前に掛け、乞食に自分の服を与えた。マンレサの町の近くの洞窟で、11か月。断食と祈りと、そして深い落ち込み(自殺を考えた、と書いている)。そこで、記録と整理を始めた。それが『霊操(Exercitia spiritualia)』。

教皇パウルス3世からイエズス会設立の認可を受けるイグナチオを描いたフレスコ画(1743年以降)
教皇パウルス3世からイエズス会設立の認可を受けるイグナチオを描いたフレスコ画(1743年以降)Wikimedia Commons Johann Christoph Handke / Michal Maňas · Public domain

4週間の黙想の手引き。指導者が、受ける人に、毎日、何をどう黙想するかを指示する。罪、キリストの生涯、受難、復活。想像力を使う(場面の中に自分を置き、においを嗅ぎ、音を聞く)。そして「識別」。自分の心の動きを観察して、どちらの方向が神から来ているかを見分ける。

1523年、エルサレム巡礼。とどまろうとしたが、フランシスコ会の管区長に追い返された。

アクバル帝の宮廷にいるイエズス会士たち(1605年頃)
アクバル帝の宮廷にいるイエズス会士たち(1605年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

帰って、学び直すことにした。33歳。バルセロナで、子供に混じってラテン語の初歩を学んだ。アルカラ、サラマンカ(異端審問所に2度、拘束された。無学の男が霊的な指導をしているという理由で)。1528年、パリ大学。7年。サント・バルブ学寮。同室に、サヴォワの貧しい家の秀才ピエール・ファーヴルと、ナバラの貴族の子フランシスコ・ザビエル。

ザビエルは、初め彼を嫌った。運動選手で、野心家で、教授職を狙っていた。イグナティウスは彼に、繰り返し言った。「人が全世界を得ても、自分の魂を失えば、何の益があるか」。数年かけて、ザビエルが変わった。

イエズス会の教育規定『ラティオ・ストゥディオルム』(1598年)
イエズス会の教育規定『ラティオ・ストゥディオルム』(1598年)Wikimedia Commons Public domain

1534年8月15日、聖母被昇天の日。モンマルトルの丘の、殉教者聖ドニの礼拝堂。7人が誓願を立てた。清貧、貞潔、そしてエルサレムへ行くこと。行けなければ、教皇の命ずるところへ行くこと。

1537年、ヴェネツィアで待った。トルコとの戦争で、エルサレム行きの船が出なかった。1年待って、諦め、ローマへ。

ジグムント3世がポズナンのイエズス会学院に大学の地位を与えた勅書
ジグムント3世がポズナンのイエズス会学院に大学の地位を与えた勅書Wikimedia Commons anonymous · Public domain

1539年、彼らは会として組織することを決めた。1540年9月27日、教皇パウルス3世の大勅書「レジミニ・ミリタンティス・エクレジエ」。「イエズス会(Societas Iesu)」の認可。会員は60人まで、という制限つきだった(1544年に撤廃)。

特徴。(1)修道院に籠もらない。合唱の聖務日課をしない。定まった修道服がない(土地の聖職者の服を着る)。(2)教皇への直接の従順(「第四の誓願」。派遣先を、教皇が決められる)。(3)総会長が終身で、上意下達の指揮系統。「死体のように従順であれ」(『会憲』の比喩)。(4)長い養成期間(14年以上)。

イグナティウス・デ・ロヨラの肖像(フランシスコ・デ・スルバラン画)
イグナティウス・デ・ロヨラWikimedia Commons Public domain

事業。(1)宣教。ザビエルがインド、マラッカ、日本へ(1549年)。マテオ・リッチが中国へ(1583年。中国の服を着て、儒者として振る舞い、暦と地図と時計で宮廷に入った)。デ・ノビリがインドで、バラモンの生活に合わせた。「適応主義」。南米のパラグアイでは、グアラニー族の「レドゥクシオン(保護共同体)」を作り、奴隷狩りから守った(1750年代に潰された)。

(2)教育。1548年、メッシーナに最初の学校。100年で500校。無償で、身分を問わず入れた。デカルト、モリエール、ヴォルテール、コルネイユ、ディドロが、イエズス会の学校で学んだ(そして、そのうち何人かは会を批判した)。

(3)学問。天文(クラヴィウス。グレゴリオ暦の改革の中心)、地震学(「イエズス会の科学」と呼ばれるほど、19世紀に地震観測網を作った)、言語(各地の言葉の文法と辞書を作った。日本語の『日葡辞書』1603年)、地図。

反発。ドミニコ会と対立し(恩寵をめぐる論争、そして中国の典礼をめぐる論争)、各国の王権と対立し(フランス、ポルトガル、スペインが順に追放した)、1773年、教皇クレメンス14世が会を解散させた。会員2万3000人が散った。ロシアのエカチェリーナ2世とプロイセンのフリードリヒ2世だけが、勅書の公布を認めず、彼らの領内で会が生き延びた。1814年、ピウス7世が再興した。

2013年、初めてイエズス会士の教皇が選ばれた(フランシスコ)。

動画(1)

106 対抗宗教改革 世界史20話プロジェクト第11話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第106講「対抗宗教改革」

同じ時代のできごと

ハラールの城壁都市AD13〜16世紀天然痘のアメリカ大陸上陸AD1520年マゼランの太平洋横断AD1521年テノチティトランの陥落AD1521年エルカーノの世界周航の完成AD1522年9月6日ルターのドイツ語訳聖書1522年9月世界一周の達成AD1522年ツヴィングリのチューリヒ改革AD1523年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1540年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →