できごと

ニュートンのプリズム

Opticks
AD1666年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1666年の版図を描いています(22勢力)。

概要

ペストで大学が閉鎖され、故郷に戻っていた年。窓の鎧戸に穴を開け、差し込む光を三角のガラスに通すと、壁に虹の帯が伸びた。当時の説では、色はガラスが白い光を「汚す」ことで生じるとされていた。彼は帯の一色だけを二枚目のプリズムに通し、それ以上分かれないことを示した。白色光は色の混合であり、プリズムはそれを分けているだけである。1704年『光学』。ゲーテは半世紀後、これに真っ向から反論する色彩論を書いた。

場所

ケンブリッジ
52.21°N 0.12°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

アイザック・ニュートンAD1643年–AD1727年 · 示した

本文

17世紀の半ばまで、色はアリストテレス以来の考え方で説明されていた。光はそれ自体では白く、純粋なものである。それが空気やガラスのような媒質を通るときに弱められ、濁らされて、色が生じる。多く弱められれば青や紫のような暗い色になり、少なければ赤のような明るい色になる。プリズムが虹の帯を作るのは、ガラスが光に何かを加えるからだ、というのである。光の研究は古く、11世紀の『光学の書』以来、屈折や反射の規則はよく調べられていたが、色そのものの正体は別の問題だった。デカルトも、光の粒の回転の速さの違いで色を説明しようとしていた。

1665年から翌年にかけて、ロンドンでペストが流行し、ケンブリッジ大学は閉鎖された。二十代前半のアイザック・ニュートンは、故郷リンカンシャーのウールスソープの農場に戻った。この一年半ほどのあいだに、彼は微積分の基礎、万有引力の着想、そして光と色の理論にたどり着いたとされ、のちに「驚異の年」と呼ばれる。ただし、これは本人が晩年に回想した話で、実際の仕事はもっと長い年月にまたがり、思い出の中で一つの時期にまとめられすぎているという見方も強い。プリズムの実験も、ケンブリッジに戻ってからを含めて、何年かにわたって続けられた。

ニュートン『光学』の扉
ニュートン『光学』の扉Wikimedia Commons Public domain

実験そのものは簡単である。部屋を暗くし、窓の鎧戸に小さな穴を開ける。差し込む一筋の光を三角のガラスのプリズムに通すと、向かいの壁に色の帯が現れる。ここまでは誰でも知っていた。ニュートンが気にしたのは帯の形だった。穴は円いのに、帯は縦に細長く伸びている。ガラスが光を少し曲げるだけなら、像は円いままのはずである。彼の答えは、色によって曲がる角度が違うから、というものだった。赤は曲がりにくく、紫は曲がりやすい。白い光の中に曲がり方の違う光が混じっていて、プリズムがそれを広げて見せている。

これを確かめるために、彼は「決定実験」と呼ぶ手順を組んだ。まずプリズムで光を分ける。次に穴を開けた板を置き、帯の中から一色だけを通す。その一色を二枚目のプリズムに通す。プリズムが色を作るのなら、その光はまた別の色に分かれるはずである。分かれなかった。赤は赤のまま、ただ決まった角度で曲がるだけだった。逆に、分けた色をレンズで一か所に集めると、白い光に戻った。白色光は単純な光ではなく、あらゆる色の光の混合であり、プリズムは色を作っているのではなく分けているだけである。

『光学』1730年版第3巻「クエリーズ」の扉
『光学』1730年版第3巻「クエリーズ」の扉Wikimedia Commons The original uploader was Libb Thims at English Wikipedia . · Public domain

帯の色を七つに数えたのも彼である。初めは赤・黄・緑・青・紫の五つとしていたが、のちに橙と藍を加えた。音階が七つの音からなることとの対応を意識したためと考えられている。実際の帯は切れ目なく移り変わり、境目はない。

1672年、ニュートンは王立協会に「光と色についての新理論」と題した手紙を送った。彼が初めて公にした論文である。直後に『ミクログラフィア』の著者ロバート・フックが反論した。フックは光を波のようなものと考えており、ニュートンの議論に光を粒とみる含みがあるのを批判した。ニュートンはこの応酬にひどく傷つき、公にすれば煩わしい論争に巻き込まれると学んだ。以後、彼は発表を極端に嫌うようになる。

アイザック・ニュートンの肖像(1689年)
アイザック・ニュートンWikimedia Commons Godfrey Kneller · Public domain

色の研究は、望遠鏡にも向かった。色によって屈折の角度が違えば、レンズで像を結ぶ望遠鏡には、どうしても色のにじみが出る。ニュートンはこれを原理的に除けないと考え、レンズの代わりに鏡で光を集める望遠鏡を自分で作った(ニュートンの反射望遠鏡)。のちに種類の違うガラスを組み合わせたレンズでにじみを抑えられることが分かるので、この判断は半分外れていたが、反射式の望遠鏡は大型の天体望遠鏡の主流になった。

光の研究がまとまった本になるのは、ずっと後の1704年である。『光学』は英語で書かれ、ラテン語の『プリンキピア』と違って数学をほとんど使わず、実験の記述が中心だった。光と色の理論、反射と屈折、薄い膜に現れる色の輪、光が物の縁で曲がる現象までを扱っている。前年の1703年にフックが死んでおり、刊行を彼の死まで待ったのだという説がある。巻末には「疑問」と題した問いの一群が付けられ、版を重ねるごとに増えて三十一になった。ここで彼は光と物質の関係、化学、電気について大胆な推測を書き連ね、それが18世紀の研究の手がかりになった。

『プリンキピア』に関わる図版:Russell, Whitehead - Principia Mathematica to 56
『プリンキピア』Wikimedia Commons Nick Dillinger · Public domain

およそ百年後の1810年、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが『色彩論』を出し、ニュートンに正面から反論した。プリズムを覗いても、白い壁を見ているかぎり色は出ない。色は明るいところと暗いところの境目に現れる。だから色は光と闇の働き合いから生まれるのであり、暗い部屋で細い光線を使うニュートンの実験は自然の中の色を説明していない、という主張である。ゲーテはこの本を詩よりも重い自分の仕事と考えていたが、物理学者には相手にされなかった。それでも残像や色の対比、影に付く色についての彼の観察は正確で、のちの色覚の研究や画家たちに影響を与えた。

光の正体をめぐる議論は、その後も揺れ続けた。19世紀初めには光が波として振る舞う実験が示され、1860年代には光が電磁波であることが理論で導かれた(電磁場の理論)。20世紀の初めには、光が粒の性質も持つことが明らかになる(プランクの量子仮説、アインシュタインの奇跡の年)。ニュートンが考えた光の粒は一度退けられ、形を変えて戻ってきた。しかし、白い光が色の混合であるという、暗い部屋で示されたことは、そのまま生き残っている。ウェストミンスター寺院の彼の墓碑には、それまで誰も思いもしなかった光線の屈折の違いと、そこから生まれる色の性質を探り当てた、と刻まれている。

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