『論語』の成立

概要
孔子の言葉を弟子たちが集めた。東アジア2000年の倫理の土台になる。
場所
35.60°N 116.99°E · 中国・山東省
関わった人(2)
孔子BC551年–BC479年 · 言葉の主孟子BC372年頃–BC289年頃 · 受け継いだ本文
孔子は、紀元前551年ごろ、魯の国に生まれたとされる。周の王の権威が衰え、諸侯が互いに争い、諸侯の国の中でも家臣が主君の権力を奪っていた時代である。父は下級の武人で、孔子が幼いうちに死んだ。母のもとで貧しく育ち、若いころは倉庫の番人や家畜の世話のような役目にもついたと伝えられる。それでも学問を好み、礼の知識で名を知られるようになった。
孔子は政治に関わって世を正そうとした。魯で一時、司法を司る高い地位についたとも伝えられるが、実権を握る家臣たちとの争いに敗れ、50代の半ばで国を去った。それから10年以上、弟子たちを連れて各地の諸侯を訪ね歩き、自分の考えを用いてくれる君主を探した(孔子の遍歴)。命を狙われ、食糧が尽きて飢えかけたこともあった。ついに用いられることなく魯に戻り、晩年は弟子の教育と古い書物の整理に力を注いで、紀元前479年に死んだ。
『論語』は、孔子が書いたものではない。弟子とその弟子が、言葉の断片を集めた。孔子の死後、何世代にもわたって、弟子たちの学派がそれぞれに伝えた言葉を持ち寄り、編み直していったと考えられている。いま読まれている20篇の形にまとまったのは、さらに後の漢の時代である。漢の初めには、少しずつ違う三つの本が伝わっていたことが分かっている。
「子曰く」で始まる短い章が並ぶ。全部でおよそ500章になる。体系だっていない。同じ問いに違う答えが並ぶこともある。孔子の言葉だけでなく、弟子の言葉や、孔子のふるまいを描いた章もある。冒頭の、学んで折にふれて復習する、なんと喜ばしいことか、という一節は、日本でも広く知られている。

たとえば「仁とは何か」への答えが、相手によってまったく違う。最も愛した弟子の顔回には、自分に打ち克って礼に立ち返ることだと答え、別の弟子の樊遅には、人を愛することだと答えた。また、聞いたことをすぐに実行すべきかと尋ねられたとき、向こう見ずな子路には、父や兄がいるのにどうしてすぐ実行できるかと止め、引っ込み思案な冉有には、すぐ実行せよと勧めた。理由を問われた孔子は、一人は退きがちだから進め、一人は人を押しのけるから退かせたのだ、と答えたという。質問した弟子の性格に合わせて答えた、という読み方がある。
説いたのは、力ではなく礼と徳で人を動かすことだった。法令で導き、刑罰で取り締まれば、民は罰を逃れても恥を知らない。徳で導き、礼で整えれば、民は恥を知り、自ら正しくなる、と孔子は言う。自分がされたくないことは人にしてはならない、という教えもここにある。支配される側にも守るべき筋があり、支配する側にはそれ以上の筋がある。

孔子の死後、その教えは弟子たちの学派に受け継がれた。戦国時代には、孟子が人の本性は善であると説いて、民を大切にしない君主は追われてもよいとまで論じ、荀子は人の本性は悪であり、礼で矯めるべきだと説いた。ほかにも墨子や老子の流れ、法による統治を説く法家など、多くの思想が競い合った。秦は法家を用い、儒家の書物を焼いたとされる(焚書坑儒)。
儒家の教えが国家の学問になったのは、漢の武帝の時代である。紀元前136年に、儒家の経典を教える博士が置かれ(儒学の官学化)、役人になるには儒学を学ぶことが求められるようになった。『論語』はそのころ、正式な経典ではなく、経典を学ぶ前に読む入門の書として扱われていた。

7世紀の初めに隋で始まった科挙(科挙の始まり)の試験は、やがて儒学の経典の知識を問うものになっていく。12世紀の朱熹は、『論語』を『孟子』などとあわせて「四書」とし、詳しい注釈を付けた(朱子学の成立)。14世紀からは、その注釈が科挙の答えの基準になる。以後、清の終わりの1905年に科挙が廃止されるまで、中国の官吏はこの書を暗記して試験を受けた。朝鮮やベトナムでも、同じような試験が行われた。
日本には、古代に朝鮮半島から伝わったとされる。『古事記』は、百済から来た王仁が『論語』をもたらしたと伝えている。聖徳太子の作とされる憲法十七条の冒頭、和を以て貴しと為す、という言葉は、『論語』の一節を踏まえている。江戸時代には武士の教養の中心になり、寺子屋で子どもたちが素読した。明治以降も、実業家の渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、商売にも道徳が要ると説いた。
20世紀の中国では、孔子は何度も激しい攻撃を受けた。1919年の五四運動では、古い家族の秩序と身分を支える教えとして批判され、文化大革命では、孔子の墓や廟が壊された。21世紀に入ると、中国政府は一転して孔子を国の伝統文化の象徴として掲げ、世界各地に中国語を教える機関を作って「孔子学院」と名づけた。

2000年、読まれ続けたことになる。その間、王朝の秩序を支える教えとしても、権力を批判する拠り所としても読まれてきた。仕官できなかった人の言葉が、仕官の条件になった。