概要
パリの貴族の家。普仏戦争の敗北を子供の頃に見て、フランスの再生には教育とスポーツが要ると考えた。イギリスのパブリック・スクールとアーノルド校長の理念を研究した。1894年、ソルボンヌで国際会議を開き、オリンピックの復興を決めた。IOC会長を29年。「参加することに意義がある」(実際にはペンシルベニアの主教の説教から借りた言葉)。女性の参加には最後まで否定的だった。
関わったできごと(1)
第1回近代オリンピックAD1896年4月6日 · 提唱した本文
ピエール・ド・フルディ、クーベルタン男爵。1863年、パリの貴族の家に生まれた。父は画家。
1870〜71年、7歳。普仏戦争。フランスがプロイセンに敗れ、パリ・コミューンが起きた。この敗北の記憶が、彼の生涯の出発点になった。
なぜフランスは負けたのか。彼の答えは、教育である。フランスの学校は、机の前に座らせ、暗記させる。イギリスの学校は、運動場で走らせる。
1883年、20歳。イギリスへ。ラグビー校を訪ねた。トマス・アーノルド校長(1828〜42年)の改革——スポーツを通じて、規律と、公正と、指導する力を教える——を、彼は理想化した(実際のアーノルドは、スポーツにさほど関心がなかった、と後の研究は言う)。
『トム・ブラウンの学校生活』(1857年、ヒューズの小説)を読み、ラグビー校の礼拝堂でアーノルドの墓に詣でた。
帰国して、フランスの教育にスポーツを入れる運動を始めた。ほとんど相手にされなかった。
1889年、万国博覧会に合わせて、体育の国際会議を開いた。各国の状況を集めるうちに、考えが「一国の教育改革」から「国際的な競技会」へ動いた。
背景。1875〜81年、ドイツの発掘隊が、オリンピアを掘り出していた。ヘラ神殿、ゼウス神殿、スタディオン。古代の競技会が、遺構として現れた。
また、イギリスのシュロップシャー州マッチ・ウェンロックで、ウィリアム・ペニー・ブルックスが1850年から「ウェンロック・オリンピック競技会」を開いていた。1890年、クーベルタンは訪ねて、80歳のブルックスに会った。ギリシャでも、1859年からザッパスの資金で「オリンピア祭」が行われていた。
1892年11月25日、ソルボンヌ。「オリンピック競技会の復興」を提唱する講演。反応は、彼の記述によれば、拍手はあったが、誰も理解しなかった。
1894年6月16〜23日、ソルボンヌ。国際会議(表向きの議題は「アマチュアリズム」)。12か国、49の団体。79人。6月23日、全会一致で、オリンピック競技会の復興と、国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決まった。
第1回は1900年のパリ、という案だったが、ギリシャの代表ヴィケラスが、1896年のアテネを主張し、通った。ヴィケラスが初代会長、クーベルタンが事務総長。
1896年4月6〜15日、アテネ。ギリシャは財政破綻していたが、アレクサンドリアの商人ゲオルギオス・アヴェロフが寄付し、パナシナイコ・スタジアムが大理石で再建された。14か国、241人(全員男性)、43種目。
マラソン。フランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案(マラトンの戦いの伝令の伝説による。古代の競技会には無かった)。ギリシャの水運びスピリドン・ルイスが優勝し、国が沸いた。
1896年からクーベルタンがIOC会長(〜1925年)。
その後の大会は、彼の理想通りにはいかなかった。1900年パリと1904年セントルイスは、万博の余興として何か月も続き、誰が優勝したのか当人も分からないほど混乱した。1904年には「人類学の日」という、先住民を競技させる催しが行われた(クーベルタンは後に「あの茶番は、その醜さで、参加を強いられた人々の尊厳を傷つけた」と書いた)。
女性の参加に、彼は反対だった。「女性の役割は、勝者に冠を授けることだ」と書いた(1912年)。1900年から女性の参加は始まっていたが、彼の考えは変わらなかった。
1912年ストックホルム。彼は「ゲオルク・ホロート」という偽名で、芸術競技(当時は絵画・彫刻・建築・音楽・文学もオリンピックの種目だった)の文学部門に「スポーツへの頌歌」を出し、金メダルを取った。
有名な言葉。「大切なのは、勝つことではなく、参加することである」——これは彼の言葉ではなく、1908年ロンドン大会の説教でペンシルヴェニアの主教タルボットが言ったことを、彼が引用して広めた。
五輪の旗(5つの輪)は1913年、彼の考案。
1925年、会長を退いた。晩年は財産を使い果たし、貧しかった。1937年9月2日、ジュネーヴの公園を散歩中に倒れて死んだ。遺言により、心臓はオリンピアに埋められた。