概要
名は守仁、余姚の人。若い頃、朱熹の「格物」に従って庭の竹を7日見つめ続けて、理を得られず病んだ。28歳で進士。1506年、宦官劉瑾を弾劾して杖40、貴州龍場へ流された。1508年、悟り。以後、講学と、そして軍。江西の反乱と、寧王の乱を50日で鎮めた(学者にして名将)。「知は行の始め、行は知の成るところ」。広西からの帰路、船中で死んだ。「此の心光明、また何をか言わん」。
所属
明関わったできごと(1)
王陽明の龍場の悟りAD1508年 · 悟った本文
1472年10月31日、浙江の余姚。父王華は1481年の状元(科挙の首席)で、南京の吏部尚書まで昇った。
伝説めいた逸話が多い。母の胎内に14か月いた。5歳まで話さなかった。11歳、北京へ行く途中の船で、詩を作って大人を驚かせた。12歳、塾で「何が第一等のことか」と問われて、「読書して聖人になることです」と答えた(普通の答えは「科挙に及第すること」)。15歳、居庸関に出て、辺境の情勢を見て回った。17歳、結婚の日に、家を抜け出して道観で道士と一晩、養生を語り、翌朝見つかった。
「格竹」。朱熹は「一草一木にも理がある。それを窮めよ」と言った。21歳頃、彼は友人の銭氏と、官舎の庭の竹の前に座った。竹の理を窮めるために。銭氏は3日で倒れ、彼は7日で倒れた。「聖賢には分(生まれつきの器)がある。我々にはできない」。
1499年、28歳、進士。工部、刑部で働いた。この間、詩文と、兵法と、道教の養生と、仏教に、順に打ち込んで、順に離れた。「五溺」(任侠、騎射、辞章、神仙、仏氏)。
1506年、正徳帝の即位の翌年。宦官の劉瑾が実権を握り、諫めた官僚が投獄された。王守仁が、その釈放を求めて上奏した。廷杖40。宮殿の前で、衣を剥がれて、板で打たれた。気を失い、生き返った。獄に半年。貴州龍場駅の駅丞に左遷。
赴任。刺客に追われて、銭塘江の岸に衣と靴を置いて、身を投げたように見せかけて逃れた、と伝える。武夷山を経て、父に会い、それから貴州へ。
龍場。1508年、37歳。
その後の20年。
講学。江西、浙江、南京。弟子が数百人集まった。彼は書斎でなく、旅先で、船で、陣中で教えた。問答が記録されて『伝習録』になった。
「心即理」。「心の外に理はなく、心の外に物はない」。ある人が庭の花を指して「この花は、あなたが見ていないときも、そこに咲いているではないか」と問うた。「あなたがこの花を見ないとき、この花はあなたの心と共に寂かである。あなたが見に来たとき、この花の色が、はっきりと現れる。だから、この花はあなたの心の外にはない」。
「知行合一」。「知って行わないのは、まだ知らないのだ」。孝を知りながら親に仕えないなら、その人は孝を知らない。「知は行の始め、行は知の成るところ」。
「致良知」(1521年頃から)。良知は、教えられなくても、善悪をその場で知る心の働き。「良知は、私の師である」。「街に満ちる人が、みな聖人である」。
軍。1516年〜、江西南部と福建の山中の反乱(数十年、官軍が入れなかった)を、1年余りで鎮めた。彼のやり方は、村を組織し(十家牌法)、情報を取り、投降者を許し、少数の兵で急襲する。同時に、学校を作り、郷約(村の自治の規約)を定めた。「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」。
1519年6月、寧王朱宸濠が南昌で挙兵した。10万。王守仁は福建へ向かう途中で知り、正規の兵を持たないまま、各地に偽の檄を飛ばして「朝廷の大軍が来る」と信じ込ませ、寧王を10日以上、南昌に足止めした。その間に義兵8万を集め、寧王が動いた隙に南昌を落とし、鄱陽湖で迎え撃って、7月26日、寧王を捕らえた。43日。
朝廷は喜ばなかった。正徳帝は、自分で「親征」して寧王を捕らえたことにしたがった(一度捕らえた寧王を釈放して、皇帝が捕らえ直す、という案まで出た)。宦官が功を横取りしようとした。彼は功績を主張せず、病を理由に故郷へ帰り、6年、講学した。
1527年、広西の反乱の鎮定を命じられた。すでに肺を病んでいた。出発の前夜、弟子との問答(「天泉証道」。四句教——「善もなく悪もないのが心の体、善があり悪があるのが意の動き、善を知り悪を知るのが良知、善を為し悪を去るのが格物」)。
鎮定して、帰る途中。1529年1月9日、江西の南安の船の中。弟子の周積が最期の言葉を求めた。「此の心光明、亦復た何をか言わん」。56歳。
死後、桂萼らの弾劾で、爵位を剥奪され、その学(王学)は禁じられた。1567年、隆慶帝が名誉を回復し、「文成」の諡を贈った。1584年、孔子廟に祀られた。