マルキオンの正典
概要
シノペの船主の子が、ローマの教会に大金を寄付して、追放された。「旧約の神は、正義で残酷。イエスの神は、愛。別の神」。ルカ福音書とパウロの10通を削って、自分の聖書を作った。教会はそれに答えて、自分の正典を決め始めた。彼の教会は300年続いた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
マルキオンAD85年頃–AD160年頃 · 追放された本文
マルキオンは黒海の南岸、ポントスの港町シノペの出身で、船を持つ裕福な商人だった。父はシノペの司教で、息子を教会から締め出したという話が後の著作家に伝わるが、彼を敵とした側の記述であり、確かめようがない。140年ごろ、彼はローマへ来て教会に加わり、20万セステルティウスという大金を寄付した。
144年の夏、マルキオンはローマの教会の長老たちの前で、自分の教えを説明した。手がかりにしたのは、イエスの言葉「良い木が悪い実を結ぶことはない」だった。旧約聖書の神は、世界を造り、律法を与え、正義の名で罰し、怒り、戦いを命じる。それに対してイエスが示した神は、愛と憐れみの神であり、この世界とは関わりのない、それまで知られていなかった神である。悪い実を結ぶ木と良い実を結ぶ木が同じであるはずがない。二つは別の神だ、と彼は言った。

長老たちはこれを退け、マルキオンを教会から追放した。寄付した金はそのまま返された。彼は自分の教会を作り、各地に司教を置いた。その広がりは速く、半世紀もたたないうちに、正統の教会の著作家たちが繰り返し反論を書くほどになった。
マルキオンは、旧約の神と新約の神の食い違いを並べた『対立命題』を書き、自分の教会のための聖典を定めた。一つは「福音」と呼ばれる一書で、いまのルカによる福音書に近いが、イエスの誕生の話や、旧約を引いて救い主を予告する箇所が無い。もう一つは「使徒」と呼ばれるパウロの10通の手紙で(多くはパウロの伝道旅行で生まれた各地の教会に宛てたもの)、ガラテヤの信徒への手紙を先頭に置き、のちに正典に入るテモテやテトスへの手紙は含まれていない。マルキオンにとって、イエスの教えを本当に分かっていたのはパウロだけで、他の使徒たちはユダヤの律法に引き戻されてしまったのだった。

福音書の短さについては、昔から、マルキオンがルカから都合の悪い所を削ったと考えられてきた。近年は、彼の福音書のほうがルカの元の形に近いのではないかと論じる研究者もいて、決着はついていない。
いずれにせよ、「この書物の一覧が、我々の聖典である」と定めたのは、マルキオンが最初だった。それまでの教会は、ユダヤ教から受け継いだ聖書(いまの旧約)を読み、イエスの言葉や使徒の手紙を、それと並べて礼拝で読んでいたが、どれが聖典かを一覧にしてはいなかった。2世紀の後半から、教会は四つの福音書と使徒の手紙を並べた一覧を持ち始め、旧約を手放さずに、それを新約と一組の聖書として読むことを選んだ。いまの新約の27書の一覧が初めて現れるのは、367年のアレクサンドリアの司教アタナシオスの手紙である。1921年、ドイツの神学者ハルナックは、マルキオンの挑戦こそが教会に正典を作らせたと論じた。これに対しては、正典を絞り込む動きはすでに進んでいて、マルキオンはそれを早めたにすぎないという反論も強い。
反論した人々の言葉は激しい。スミルナの司教ポリュカルポスはマルキオンに会ったとき「サタンの長子」と呼んだと伝えられ、テルトゥリアヌスは5巻の『マルキオン反駁』を書いて、彼を福音書をかじる「ポントスの鼠」と罵った。マルキオンが160年ごろに死んだ後も、彼の教会は続いた。シリアには318年の日付を持つ「マルキオン派の会堂」の碑文が残り、5世紀にシリアの司教テオドレトスは、自分の教区で千人を超えるマルキオン派を改宗させたと書いている。
マルキオンは、世界を造った神と救いの神を分けたため、グノーシス主義の一つとして数えられることが多い。ただ彼は、特別な知識による救いではなく、恵みと信仰による救いを説いた。そのためハルナックは彼を、マルティン・ルターより千年以上前に現れた宗教改革者のように描き、さらに、旧約を新約と同じ正典として持ち続けることを見直すべきだと書いた。その12年後のドイツで、ナチスに近い「ドイツ的キリスト者」は、ユダヤの書である旧約を捨てよと叫ぶことになる。旧約を捨てることが何につながるのか。144年のローマの教会は、それを捨てない道を選んだ。